強姦についての考察と勤勉さに対する憎しみ

 多分その言葉を知ったきっかけは、テレビニュースだったと思う。性的暴行、という言葉の意味が分からなかったから、父か母に尋ねたのだと思う。
 詳しいことは覚えていない。ネットで調べれば、たくさんのサイトがヒットして、この世界には私の知らないことがたくさんあるのだと、その時も思い知った。

 私は今でも少し分からないことがある。なぜ男性は、自分が憎んでいる女性を性的な目で見れるのだろう、と。大嫌いな敵国の女を凌辱してから殺す兵士というのは、古来よりたくさんいたらしいが、私にはその心理が一切理解できなかった。
 人を殺したいという気持ちは分かる。女を求める気持ちも、多分分かる。でも、犯して殺すというのは、ただ無意味である気がしてならない。生物本能的にも、犯した異性を殺してしまうのは、何の意味もないと思う。犯した後は守る方が、生物として自然な気がする。でも、強姦魔はいつでも、犯した女を放置する。
 ネット上に溢れているレイプものの性的コンテンツのほとんども、犯された後の女はなぜかいつも放置されている。私には、なぜそうするのか理解できない。昔も今も、そこだけは男性の心理が分からない。

 私は、自分が見たくないものをわざわざ検索してみようとする。それへの忌避反応を克服するために、自分が不愉快だと思う方に向かっていく。克服できなかったものもあるけれど、大抵のものはマシになった。グロテスクなものもそうだし、性的なものもそうだ。虫もそうだ。今でも反射的に気分が悪くなるけれど、過剰な恐怖心はなくなった。見てしまって、頭にこびりついても「この反応は知っているぞ」と落ち着いていることができる。外を走れば、そういう気持ちも楽になる。

 別に私に、そういう性的趣向があるわけじゃない。
 でも、強姦されたいと思う人の気持ちが理解できないわけじゃない。
 それは、ただ現状の自分を憎むがゆえの破滅願望だ。

 私たちは、追い詰められると、あらゆる責任から逃れようとする。
「逃げることは罪である」
「しかし休みたい」
「休む正当な理由は何であろうか?」
「それは傷つくことである。傷ついて、立ち上がれなくなることである」
「そうすれば、誰も私に『もっと頑張れ』と言えなくなる」
「そうだ。だから、私は悲惨な目に遭いたい。誰からも同情されるような目に遭いたい。そうすれば、そうでなくては、休めないから……」

 私はその気持ちが、深く理解できる。その無責任への強い願望を、私は知っている。
 強姦の被害に遭うことは、ある意味、誰もが想像できるもっとも悲惨な出来事だ。強姦に遭ってしまえば、誰もその人を責めることはできなくなる。その人がどれだけ我儘を言っても、許すようになる。
 どれだけ追い詰められればそんな思考になるのだろうと「普通の人」は思うかもしれない。でも、その気持ちは、案外ありふれた感情だと私には思える。
 誰の目から見ても悲惨な目に遭えば、もう頑張らなくてもいい理由になる。

 その理由をうまく認められない人は、その休息への欲求が性的願望に変わる可能性はあるかもしれない。それとは別に、後天的な経験の結果、レイプ願望が生まれる場合もあるかもしれない。
 いずれにしろ、気分の悪いことだ。それが現実に存在し、私自身がその中に溺れていたことがあるという事実が、さらに私を不快にさせる。今でも、そういう夢を見てしまうことがある。
 もうそんなこと望んでいないのに、かつてそれを望んだという事実が、私の精神を引っ張ってしまう。

 自分自身のことは、自分自身で責任を持ちたいのに、自分自身のことすら投げ出したいと思っていたあの日々を、私は悲しく思う。人をあんな思いにさせるこの社会を、恨む気持ちも湧いてくる。
 誰も理解してくれなかったことも、私は忘れられないことだろう。誰も助けてくれず、結局私はひとりで乗り越えるしかなかったことも。

 たまたま助けてくれる人がいた幸運な人の言葉を聞くたびに、私はやりきれない思いを抱く。

 物質的な環境は確かに恵まれていた。でも、誰も手を差し伸べてはくれなかった。精神的な自立は、とても難しいことだった。誰もいない静かな病室で、何時間も涙を流し続ける私の気持ちを、誰が理解できるだろうか? 誰からも連絡は来ない。看護婦さんの対応も冷たい。体は痛くて動かせない。私の人生に、未来はない。

 私の本質は、私が、他の人と区別されうる点は、賢さなんかじゃない。ただ、精神的な強さなんだ。それしかないんだ。見たくないものを直視して、それでもまだ立っていられる、精神的な強固さなのだ。目を背けるのでも、鈍感になるのでもなく、涙を流して、嘔吐して、それでもまだ立っていられる、この独立心なのだ。

 私は人に頼りたくない。頼られたくもない。ただ私自身でありたい。もう、投げ出したりしない。

 他者の同情はもう必要としない。誰かに傷つけられる必要も、もうない。私のことは、私だけでできる。
 「病気になれば、休むことができる」なんてもう思わない。
 私は私の意志で休むことができる。

 「休むな」「逃げるな」という連中の言うことを、私はもう信じない。


 あいつらはみんな死ねばいい。
 休むことも逃げることもしなかった結果、死ねばいい。そうすれば、世界は今よりずっと明るくなる。
 何が「そのたゆまぬ努力の結果として、この豊かな社会がある」だ。
 その努力の結果として、私たち若い世代が死ぬのでは、何の意味もないじゃないか!
 死ぬべきはお前たちの方だ。消えるべきは、変わるべきは、お前たちの方だ。そうだ……私は、勤勉な連中を憎んでいる。

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