理想ではなく現実を 善ではなく悪を

 私には善が分からない。私は自分が欲している未来など存在しないことだけは理解している。
 人々は「世界中の人間が幸福になった世界」を理想像に置きたがる。だが、私が想像する「世界中の人間が幸福になった世界」の中に、私という人間はいない。私は人間の不幸が好きだ。自分の不幸が好きだし、他の人の、他の人自身の不幸が好きだ。当人の不幸は尊重されるべきだ。

 しかし私には、彼らの言う「世界中の人間が幸福になった世界」以上に魅力的な理想像を描き出す能力が欠けている。どれだけ自分の望む世界像を組み上げてみても、それは私にとって陳腐で、つまらなくて、実際のこの現実以上の美しさを作り出すことはできない。私はどうしようもなくこの現実を愛しており、理想に逃げる能力を失っている。

 だが、悪は分かる。私には、どうしようもなく「悪」としか思えないものがある。それは皆にとっての「悪」ではないかもしれない。だが私にとっては、どうしようもない「悪」なのだ。
 「悪」とは何か。どのような観念か。

 それは自らに課す禁止だ。
「私はこうであってはならない」
 という命令だ。それこそが「悪」の本質であり、そのもっとも深いものは、私に本能的な憎悪の念を抱かせる。

 私は自分の中に存在する無数の「悪」を、ひっくり返してきた。「悪」のほとんどは、意味のあるものだった。価値のあるものだった。それは、他の人間が「悪」だと言ったせいで、私も「悪」だと思い込まされたものばかりだった。

 それなのに、どれだけひっくり返してもなくならない「悪」があった。どれだけその正当性や有用性を理解しても、私の中から消えない憎悪があった。
 それは、人間の単純さであった。人間のというものの、どうしようもない、無理解、無関心、無教養であった。
 一時のそれならいい。誰もがそこから出発する。私も子供のころは、そうだった。誰もが、最初は愚かな存在として生まれてくる。何も考えられない存在として生まれてくる。
 人の能力や生き方は、その人自身の生まれや血筋によって決まるのではなく、環境と偶然によって大きく変化する。だから各個人が愚かであったり、憎むべき単純さを備えていたとしても、それは罪ではない。罪なのは、人を単純にしようとする動きだ。人を単純なままにさせておきたい、という利己的な意思だ。
 私はこれに、どうしようもない憎悪を感じる。

 単純なままにさせたがる人間。単純なままでいたがる人間。私はそういう人間に、本能的な嫌悪感を感じずにいられない。

 だがそのような憎しみもまた一種の単純さであり、私自身が避けるべき事柄だ。私は複雑な人間であるから、感情も、行動も、複雑でなくてはならない。それは、考え抜かれたものでなくてはならない。迷いと混乱の中できらめく、一瞬の光でなくてはならない。

 どんな単純に見える人間の中にも、複雑さの種は宿っている。必ず。ただ人は、すぐに勘違いをする。他者を、単純な存在だと思い込もうとする。その人自身を、単純な存在だと思い込もうとする。私はそこに、悲しみや苦しみを感じる。
 だが私自身が「他者はすぐに勘違いをする」と考えてしまうこと自体が、一種の単純化であることも、また事実なのだ。

 それなのに、それなのに、現実は、人々の争いは、単純さの中で行われている。相手を実際以上に単純なものとして捉え、自分自身すら実際以上に単純なものとして捉え、そのように生きることを正当化し、それがずっと続くことを肯定する。そういう連中が、私は憎くて仕方がない。

 自分に近いがゆえだ。私は、自分に似たものを憎んでいる。自分に似たものを軽蔑している。同族嫌悪ではなく、かつて同族であったものを嫌悪している。そしてこれも、一種の単純さなのだ。
 人は自分と同じものではなく、自分が捨てたものに縋っている人間を深く軽蔑し、憎む。それは一種の生物的反応であり、これまで必然であったものであり、宿命でもある。
 はじめて複雑な細胞を持った生物は、これまでの単純な細胞を持った生物すべてを軽蔑し、優越感に浸ったことだろう。はじめて内臓を獲得した生物も、内臓を持っていない生物のことを嘲笑ったことだろう。陸に上がった生物は、水の中でしか呼吸できない生物を見下したことだろう。
 鳥は、飛べない鳥を蔑む。
 馬は、走れない馬を蔑む。
 人は? 私たち人間は、あらゆる生き物を畜生と呼んで蔑んできた。
 そして、私たちは、神や仏など人間以上のものの可能性を見るたびに、人間を蔑もうとしてきた。

 哀れな単純性だ。そのような生物的必然性、私達でも容易に理解できてしまう、簡単な感情、そんな哀れなものに内側から操られ続けている。
 私は、人類の未来がその単純性に支配され続けることに、反対していたい。

 私には善が分からない。目指すべき地点が分からない。だが、悪は理解している。避けるべきものは理解している。
 私たちはこのままじゃいけないと思っている。この先の未来が、私たちにとって気分の悪いものであってはならない。

 私たちには美しさが分からない。だが醜さならよく知っている。私たち自身が、あまりにも醜いからだ。

 私は、他の人が醜さに対してもっと敏感になればいいと思っている。それは苦痛を伴うことだが、その苦痛は、必要なことであると私は思っている。

 人間は醜い。だが醜さの中にも美しさはある。


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