自分の愚かさについて
私は自分の愚かさに絶望して、何もかもがダメになってしまうような気分になる時がある。
私が愚かであることを示す証拠はいくらでもあるのに、私が愚かでないことを示す証拠は全くない。
悲しいことに私は多くのことを勘違いするし、勘違いしたまま自信満々に語ってしまったりする。
私より賢い人は、皆私の愚かさを見て残念に思って口を閉じる。誰も私の愚かさを指摘してくれる人はいない。
だって私自身、誰かのことを愚かだと思っても、相手がそれを求めているのでない限り指摘なんて絶対にしないのだから。
賢い人間が人の誤りを指摘するときの条件は、相手がそれを正すことが出来て、かつその相手が指摘してきた人に反感を持たないこと。
それほど仲がよくない人に対してそれを求めるのは、それこそ愚かしいことで、争いを産む原因になってしまう。
ともあれ自分自身のことを愚かだと思って生活すると、気楽である。「賢くならなくてはならない」などと考えず、自分自身の考えることのほとんどは潜在的に間違っているものとして捉える。
判断はする。行動もする。でもいつでも修正できる柔軟さを忘れないでおく。
そうやって生活していると、まるで自分が賢い人間であるかのように思えてくるのだから、奇妙だ。
自分を賢いと思うと、自分の愚かさが目に付く。
自分を愚かだと思うと、自分の賢さが目に付く。
畢竟、私はその天と地の渺茫たる中間を漂っているのだ。
話は変わるけど、「畢竟」とか「渺茫」とか、どう思う? 私できるだけ使いたくないと思ってる。
なんか、語彙が貧弱な人から「すごい語彙ですね!」と言われても侮辱されているような気になっちゃうし、文章がうまい人に「そんなのは単なる知識のひけらかしだ」と指摘されても恥ずかしい。
はい脱線脱線。
私はそんな風に自分のことを低く感じたり、悪く感じたりすることが多いのだけれど、自分の文章を読み直しているとその気持ちは和らぐ。
自分自身への悪いイメージが勘違いであるというのが分かるのだ。
私の文章は読みやすくて、楽しい。少なくとも私にとってはそうだ。理想的と言ってしまってもいい。
私は私の文章が、他の誰の文章よりも好きだし、面白いと思っている。
周りの人がそれを読んでどう思うかなんて、分からない。
内容が難しくなるほど、お馬鹿な人たちが何を考えるかはほとんど偶然に左右されてしまうと思っている。だって、理解できないから。
お馬鹿な人たちにレベルを合わせて、彼らの趣向を分析して、それでたっくさん拍手をしてもらって、ついでにお金をもらって。そういうのはやっぱり私の趣味じゃない。
私は私がいいと思ったものを書く。それは私がいいと思ったものを食べたり買ったりするのと同じことだ。
私は書くために書いているのではなく、後で読み返して楽しむために書いている。
同じように、たまたま見つけた人が私を楽しんでくれたら、ついでに嬉しいと思っておこう。それでいい。
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