嫉妬してしまうこと

 自分が欲しいと思っても手に入らなかったものを持っている人を、憎みたくなる時がある。
 嫉妬心は、何に対してでも働く。金、幸せ、異性、能力、環境、年齢、性別……ともあれ自分がそれを欲しいと思えば思うほど、それを持っている人間を羨んでしまうものである。

 それが努力で手に入るものなら、向上心を持って取り組むことができる。あるいは向上心を持っていないのならさっさと諦めて、それでおしまい。

 しかし、どうやったって手に入らないものもある。
 私はそういうとき、想像で満足しようとする。それを手に入れた時、手に入れた後のことを考えて、その先にいる自分の考えや思いを具体的に想像してみる。
 すると、たとえそれが手に入っても私は私なのだと理解できるし、また別のものに嫉妬し始めるだろうということにも気が付く。
 そして我に返ると、その嫉妬心が馬鹿馬鹿しく思えてくる。それが手に入ったところで、根本的な部分では何も変わっていないことに気が付くからだ。

 ともあれ、嫉妬心というのはどれだけ慰めたり収めたりしても、何かきっかけがあるだけでしつこく再燃してくる。そういうものなのである。

「私は嫉妬などしていない」
 と自分に言い聞かせる時もあるけれど、でもそもそも「嫉妬」という語が出てきた時点で、もうほとんど自分自身に対して暴露してしまっている。
 私はすぐ人に嫉妬する人間だ。それを表に出さず自分自身で処理しているだけで、決して根っこから立派な人間というわけではない。

 しかし私は嫉妬を決定的に和らげる方法を知っている。それは、行動することだ。
 何でもいい。ただ外を全力で走るのでもいい。集中して文章を書いてもいいし、数学の問題を解くのでもいい。
 嫉妬をするのは、手持ち無沙汰な時だけなのだ。ただ見ているだけの時。何も手に入れようとしていない時。
 だから私たちは、もし嫉妬を知らずに生きたいなら、常に何かを欲望していなくちゃいけないし、それを自らの行動によって獲得し続けなくてはならない。
 
 嫉妬は何よりも自分を惨めにする。惨めになりたくないから、人は働くのだろうと私は思う。確かにそれは賢い選択だ。


 私はそれでも私の惨めさを噛み締め続ける。私は私のもっとも醜い部分にもちゃんと光を当てる。それはきっと、私が思っているほど醜いものではないと、私は信じている。

 あなた方にはどう見えるだろうか。私の、この隠蔽された嫉妬心は。


関係ないけどちょっとした教訓:自分が嫉妬している対象をよく観察して、いい部分を盗もうとするのは習慣にした方がいい。それは自分自身の利になるだけでなく、周りにもいい影響を与えるから。嫉妬って実は悪徳じゃないんだよ。


つづき



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