私たちにとって哲学とは冒険である


 あらゆる物事の「タブー」を無視する私たちにとって、哲学は冒険である。
 それは喜びと恐怖、期待と失望を予感させるものであり、深淵への欲求でもある。

 私たちはその思索で得たものを、自分の信念とする心づもりで思索する。
その「タブー」とされている問にぶつかっていくとき、私たちは二つの恐怖を抱く。
 ひとつは、自分の精神がそれに耐えられるかという恐怖。もうひとつは、その問いにぶつかることによって、自分がどのように変わってしまうか分からないという恐怖。

 考えてみたまえ。このような簡単な問いにさえ、私たちには破滅の危険がある!
「なぜ人を殺してはいけないのか」
 もし私たちが殺したいほど憎んでいる相手がいてなおかつ、殺してはいけない理由などないのだと気づいてしまったら? むしろこのこと深く考えていった結果「殺すべき人は殺してもいい」という思想を獲得してしまったら? あぁなんと恐ろしいことだろう! 私たちは実際に人を殺してしまうかもしれない!
 私たちは、そのような恐怖を抱いたまま深く切り込んでいく。そのようになってしまうかもしれないと分かっていても、私たちは前に進んでいく。考え続けていく。

 そうだ。哲学とは冒険なのだ! 他の人間が考えそうにないことを考えることこそが、私たちの喜び!
 それを考えることによって、自分自身が破滅に一歩近づいていくことに、スリルと喜びを感じるのだ!

 そうだ私たちは怖いもの知らず。まだ見ぬ思考を、思索を、おぞましいまでの現実を、手に入れ、自分の魂に刻み込むことを望んでいる。

 命綱は、自前で用意しなくてはならない。思索の道具も、自前で用意しなくてはならない。
 どこに潜っていくのかも、全部自分で決めるのだ。どこでやめるのかも、何を手に入れるのかも、手に入れたものをどうするのかも、全部自分で決めるのだ!

 あぁそれこそ哲学!
 私たちの先輩は哲学の先にあるものを光と言ったが、私たちはより深い、闇の方に向かっていくのだ! そうだ! 深く恐ろしい闇を私たちの精神という名の光で、照らしに行く! 


 洞窟の外は夜だ。そして私たちには灯がある。

 我ら怖いもの知らず。さて、今夜はどんな怪物が私たちの前に立ちはだかるのだろうか? あぁ楽しみだ。


 帰ってきたら、ペンを持ってダンスをしよう。そう、今私がやっているように、その冒険の成果を美しく描き出すのだ。

 踊り疲れたら、ゆっくり休もう。影遊びをしたっていいんだよ。漫画を読んだり、映画を見たり、ゲームをしたり。
 私たちは深い人間だから、浅せで遊ぶことを恐れたりはしない。
 いやむしろ私たちは深いからこそ、浅瀬を好むのだ! いつも真剣に生きているからこそ、不真面目であることに喜びを見出すのだ!

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