ふたりの女

 ギィイイイン。通過列車の轟音が耳に痛く響いた。しばらく聞いてなかった音だからか、いつも以上に私の心を内側からむしばんでいく。
 何の配慮もない叫び声だ。イヤホンをする人々も、友達と会話をする人々も、誰ももはや何も感じていない。
 私はぎゅっと目をつぶり、耐えようと思った。これは私の問題だ。誰かが悪いわけじゃない。私が、耐えればいいだけのことなのだ。実際、これで苦しんでいる人間は、あまり多くない。私と同じくらい繊細な人間も、きっとそれほど多くない。
「あぁ。久しぶり」
 後ろから急に声がかけられて、肩がビクッと震えてしまう。驚いて振り返ると、一瞬鏡を見ているのかと思った。その人のよすぎる笑顔も、至近距離なのに小さく手を振るわざとらしさも、自分自身とあまりにも似ていたからだ。
「理知さん」
 浅川理知。一つ年上の、素敵な先輩。艶のある真っ黒なミディアムヘアに、くっきりとした眉。力のある目元に、よく三白眼になる大きな瞼。長いまつ毛に、染みひとつない肌……いや、ひとつふたつ、ニキビができている。
「ちょっと体調悪そうだね」
「久々の学校だったんで、ちょっと疲れちゃいました」
「私も見ての通りだよ。肌荒れちゃって」
 この人は、私の思っていることをいつも完全に言い当てる。ナチュラルに。それで別に見下しているとか、コントロールしているとか、そういう疑いを持たせたりしないのだから、本当にすごい人だと思う。
「どうしたの?」
「いや、いつも理知さんは私の思ってること当ててくるなって」
「たまたまだよ。でも、ふうちゃん、私の顔見て最初はすごく嬉しそうな顔したのに、途中で何かに気づいて真顔になったから、あ、これ私の顔に何かあるなって思ったんだ。だとしたら、ニキビだろうなぁって」
「ほんとに今の短時間で、そんなこと考えて反応したんですか?」
「ん? んー。多分ね」
「頭の中どうなってるんですかねぇ」
「それはお互い様じゃない?」
「どういう意味ですか?」
 ギィイイイン。私たちが乗る電車がさっきと同じように激しい音をたてながらやってきた。私は目をつぶった。だが、目の前に尊敬する友人がいることを思いだし、すぐに笑って目を空けた。理知さんは、私から目を逸らしていた。冷たい目で、列車を見つめていた。
「私はふうちゃんほど、多くのものが見えていない。そういうことだよ。時々それが悔しい」
 多くのもの。どういうことなのだろう? 私が見ている景色は、彼女が見ている景色より豊かだとは思えない。この人は私より全体的に勉強がよくできるし、絵も上手だし、歌も上手だ。本当に何でもできる人だし、私と違ってその気になれば、本当にどんな職業を選んでも一流の腕前になることができるような、オールマイティ型の天才なのに。
「私は、何にもなれないんだよ。人間は、何ができるかが重要じゃない。何をするか、何になるかが重要なんだ。私はただ、人より優秀な一個の女でしかない。ふうちゃんは、そうじゃない。特別な才能がある」
「そんなこと……」
 過剰評価だと思う。みんな私を過剰評価する。だから私は思い上がって、余計苦しい思いをする。
「嫌なら、忘れてくれていいよ。ちょっとした僻みだから」
「理知さんが私を僻む理由なんてないでしょう」
「あなたは、私を尊敬しているけれど、私を羨ましいと全く思ってない。私の持っている全てのものについて、あなたは一切の価値を置いてない。それくらいは分かる。容姿も、勉強も、絵も、歌も、私にとってもあなたにとってもどうでもいいものでしかないんだから」
 それは、確かに本当のことだった。私は彼女のことを尊敬しているけど、羨ましいと思ったことはない。すごい人だし、好きだとも思うけど、全く嫉妬しない。憎悪の念が湧いてこない。つまりそれが……
「電車、乗り過ごしちゃったね」
「はい。でも、なんでそんな本音を?」
「最近彼氏に相手してもらえてないから」
「あ……なるほど」
「ごめんね。当たっちゃって」
「でも、どうしてですか?」
「彼、気分屋だから。なんかもう別れようかなって思ってる。疲れるし、この人とずっと一緒にはいられない気がする」
「もう好きじゃなくなったんですか?」
「好きだよ。好きだけど、こんな風に苦しんで、大事な友達に当たり散らすようじゃ、ダメだよね。それならひとりでいたときの方が、ちゃんと私でいられたような気がする。最近私、ちょっと変なんだ」
「変……でも多分それが、ずっと隠してきた理知さん自身なんじゃ?」
 理知さんはまるで、予定していたかのようなスムーズさで、ため息をつく。
「ほら、結局ふうちゃんだって、私の考えてること、言い当てるじゃん。今何で自分がそんなこと言えたか分かる?」
「いや……直感的に、ですかね」
「そういうところだよ。そういうところなんだよ。私はたいへんな努力をして人の気持ちを想像するけれど、ふうちゃんはそれをする必要がない。ただ自分らしくあるだけで、ふうちゃんは人に寄り添うことができる。それが羨ましい。私にはできないから」
「……じゃあ理知さんが自分らしくあったら、どうなるんですか?」
「分からないよ。ずっと、自分が一番好きでいられる自分を演じてきたんだから。そうじゃない自分なんて、想像もできないし……いや、今こうやって、信頼できる人に何の遠慮もなく本音をぶつけてしまっているのが、本当の私なんだろうね。自分勝手で、妙に理屈っぽくて、周りの目も、電車を乗り過ごしたこともどうでもよくて、そういうのが私なんだろうね」
「なるほど」
 私は何も言えなかった。ただ、やはり人以上に物事をよく考え、よく感じる人間は、人より苦しまずにいられないのだな、と思った。彼女のように、才能と努力で全てのものを勝ち取ることができる人間でさえ、己自身を受け入れることに難儀している。
「ふうちゃん」
「なんですか?」
「私に抱かれてくれない?」
「はい?」
「だから、ホテルに寄ろう。ふうちゃんもバイでしょ。時々私の顔に見惚れてるのも知っているし、私と彼の情事の想像をして楽しんでるのも知ってる」
「いやいやいや! よくないですよそれは! 浮気じゃないですか!」
「はぁ。真面目だなぁふうちゃんは。じゃあ他の男でも探すか」
「いやいやいや。理知さんキャラ変わってますよ!? 下ネタ、あんなに嫌がってたじゃないですか。そういうのは、あんまり考えないようにしてるって」
「もう私は処女じゃないんだよ。別に、セックスで失うものなんて何もないっていうことが分かったから、そんなのはもうどうでもいいことなんだ。ふうちゃんも、いつか分かる」
「いやそれでも、性欲に……いや、性欲だけじゃないのは分かりますけど、でも、自分の矜持をそんな風に捨て去ってしまうのはおかしいですって」
「それはさ、ふうちゃんが私には綺麗な女でいて欲しかっただけでしょ? 実際の私は、こうなんだよ。どれだけ優秀で清楚っぽくて、男を少しも知らないような見た目をしていても、実際は薄汚れてる。元々心はずっと黒ずんでたし、下の方だってそうだよ。さ、次の電車は乗らないと」
 ギィイイイン。心臓がバクバクした。確かに私は、何度か彼女と肌を重ねる想像をしたことがある。それで自分を慰めたこともある。私なんかよりずっとハードなトレーニングを毎日やっている彼女の鍛え抜かれた体は魅力的だし、顔は美形そのもの。ずっと眺めていても飽きない。性行為に及ぶとして、どんな風に体が反応し、どんな声で鳴くのか、興味がないことはない。私の中の男性的な部分は、確かに彼女を求めている。でも、だとしても、それは違う。
 理屈ではなく、私の意志が、彼女と行為に及ぶのは、間違っているとそう告げるのだ。
 ボックス席を隣合って座る。彼女は窓際に座って、外を眺めながら、私が据わっている側の手を、自然に、しかし下心を持って私の太ももの上に置いている。こんなことをする人ではなかった。彼女はずっと、ひとりで我慢する人だった。こんなに、おかしな甘え方をする人ではなかった。
 彼女は、何かを言おうと口を開いたと思ったら、すぐにまた閉じて、結局私の降りる駅に着くまで黙っていた。私は、太ももに置かれた彼女の手を握って、強引に引っ張って電車を降りた。
「どうするつもりなの?」
「もうこうなったら、全部聞きますよ。そうじゃないと、私の方も納得できない。私が学校に行ってない間、何があったんですか?」
 理知さんはため息をついた。
「家に帰るんでしょ? ご両親は?」
「いますよ。だから、他の場所にしましょう」
「じゃあホテルだ。他に場所はない」
「いやです。公園にしましょう。今の理知さんにだったら、襲われかねない」
「警戒心が強いんだね、相変わらず」
「本当に何があったんですか?」
「お母さんが死んだ」

 公園につくと、理知さんは一直線にブランコに座って、漕ぎ始めた。私は隣で立ち尽くしていた。
「実はさ、お母さんが死んだのは、船見君と付き合うようになる前のことなんだ。だから、その出来事があったあとも私は何度かふうちゃんに会ってる。でもふうちゃんは、気づかなかったよね」
 いや……何かあったということは知っていた。理知さんが一時期、言葉遣いや態度は全く変わらないのに、時折驚くほど冷たい目をするようになっていたからだ。
 でもそれは、元々そういうところのある人だったし、それが一段と増しただけだったから、年を取るというのはそういうことなのだろうと、思っていた。もちろん、その考えも間違ってはいないが。
「少し暗くなったな、とは思ってました。でもそれは、私自身にも言えることだったので」
「あなたのお兄さんが死んだ話は知ってる。だから実は、あなたの方が私より強かったっていう、それだけのことなんだ。ずっと、私はあなたを勘違いしてた。近しい人が死んでしまうのが、こんなに苦しいことだなんて、私はちゃんと分かってなかった」
「私には、支えてくれる家族がいました」
「それは嘘だよ。それが嘘だって分からないほど私は馬鹿じゃない。ふうちゃんは、家族を重荷だと思ってる。ふうちゃんは、家族を捨ててひとりで生きるとしても、今の私のようにはならない。強く自己を保ったまま、前に進むことができる。できてしまう。私みたいに……男に頼って、自分の美しさを質に入れて、それで何とか生き延びようとする必要もなく」
「もしかして、それを船見さんに言ったんですか?」
「失望されたよ。『そんなことを言う人だとは思ってなかった。君が重たいのは別に構わないが、君が自分に対して無責任になって、俺に押し付けようとするのは、違う』って。彼は、確かにひとりで耐えることのできる私のことが好きだったんだ。でも私にはそれができなかった。その時だけの一瞬の気のゆるみならよかった。ついに我慢が出来なくなったのだとしたら、それでもよかった。それなら……私の問題は、そこで解決されていた。いつもみたいに、失敗したなって思って、それでもう次から改善して、それでおしまいのはずだった。それなのに、私は耐えられなかった。同じ話を、彼にしてしまった。それも三度。私は自分がそういう人間なんだって、思い知ったよ。ひとりで人生を耐えられる人間じゃない」
 かけるべき言葉が見つからなかった。ただ、涙をぼろぼろと流しながらも、はっきりと自分の言葉で話し続ける彼女の隣で、私は何も言わず瞳を濡らすことしかできなかった。
 きっと、どうしようもなく苦しかったんだ。耐えられなかったんだ。感情が、消えてくれなかったんだ。私だって、いつかそうなってしまうかもしれない。
「ふうちゃんは、一生ふうちゃんのままなんだ。だってふうちゃんは、私みたいに『私は私が望む浅川理知でなくてはならない』なんて自分に命じる必要もなく、生きてきたんだから。泣きたいときに泣いて、死にたいときに死のうとした。そういう人は、私みたいに、誰かに自分を委ねようとする必要がない。自分の体を傷つけてでも、孤独を癒そうとする必要がない」
 外はもう暗くなっていた。カラスの鳴き声が馬鹿みたいに響いた。それが人生だ、と言わんばかりだった。
「ごはん、食べましょう。何か食べたいもの、ありますか?」
「なんでもいい」
「ラーメンか……寿司か、焼肉でもいいなぁ。うん。私、今日焼肉食べたい気分なんですけど、大丈夫ですか?」
 その日初めて、理知さんは演技ではなく、彼女自身の笑みをこぼした。
「ふふ。うん。いいよ。焼肉食べよう。お酒も飲みたい。未成年だけど」
「ダメですよ、それは」
「どうして?」
「法律だからとかじゃなくて、今理知さん酔っぱらったら、何しでかすか分からないからです。普通に心配なので」
「やっぱりさ、ふうちゃんは強いよ。私なんかよりよっぽど」
「肉食べましょう肉。それから、カラオケでも行きませんか? 理知さんの美声、時々聞きたいなぁって思うんですよ」
「私もふうちゃんのヘッタクソな歌、時々聞きたくなるよ」
「それは嬉しいですね」
 カラスが鳴いている。薄暗闇の中、私たちは並んで歩いている。何も言わず、涙でびしょびしょになったハンカチを握りしめて。
 向かうは宴。今夜はきっと、いい夜になる。


続き。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?