人は自分基準で人を見るから

 人は他者を見るとき「自分はこうだからこの人もきっとそうだろう」という推論の仕方をする。
 「なぜそんなことをするのか」という理由を、自分自身の思考力や立場に置き換えたがる。

 だからこそ、その人の気質というのは、その人が周りの人間をどう見ているのが自然か、というので分かってくる。その人が居心地の良い人間関係がどのようであるか、というので判断できる。

 たとえば、道の端に落ちているすごく汚い空き缶を何の躊躇もなく拾い、きょろきょろとあたりを見渡したあと、ため息をひとつついてその空き缶を持ったまま早足でどこかに去って行った人がいるとする。

 その人がなぜそんなことをしたかとか、そのあとその人がどうするかとか、そういう想像をするとき、その人の生き方や性格、ふだん関わっている人々との関係がよく分かる。

 たとえばある人は「あの子はただ習慣に従って見苦しいゴミを拾って捨てようとしただけだ。でも近くにゴミ箱がなかったので、拾わなかったらよかったと少し後悔しつつも、探せば見つかるだろうと早足でこの場を去ったのだ」と考える。

 また別の人は「あの子は周りの人間から『いい人』だと思われたいからゴミを拾ったが、それを捨てる場所が見つからなかったので、周りの人間のいないところまで行って適当な場所にポイ捨てすることだろう」と想像する。

 他にも色々な想像ができるが、ともあれどのような考えが自分にとって自然か、ということでその人間の性格や見ている世界の程度がよく分かる。人は自分が思っているよりも、簡単に自分の本性や内面を露呈している。

 他者をすぐ劣ったものとして見る人間や、あらゆる事情を想像しない人間は、その人自身が考えない人間たちとよく関わり、自分自身もそうなっていることが想起される。
 逆に周りに優れた人間が多い人は、他者が何か馬鹿なことをやっていても、実際以上にそこに何らかの深い理由を求める。誰もが、物事をよく考えたうえで動いていると考える方が、彼にとって実生活に即しているのである。

 インターネットというのは面白いもので、様々な人がいる。文章を読めば、その人がだいたいどの程度の人間なのかは意外と簡単に見て取れる。
 そういう性質を利用して、実際以上に立派な人間を演じている人間もいる。あるいは、人気を得るために実際以上に劣った人間を演じている人間もいる。自分は思っていもいないが大多数が思っていそうなことを先手とって語ろうとする人間もいる。残念で恥ずかしいことだ。

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