なんで私ばっかり
今日の食卓の喧嘩で、父の口からついに本音が漏れた。
普段感情を抑えて言葉を選んでいる人が、怒りのあまりに無意識に叫ぶ大きな声に、母は驚いた。
私は「あぁ、そうだよな」と思った。
多分父は、私ほど怜悧じゃない。
「俺はいつも最大限お前の意見を最後まで聞こうとするのに、お前の方はいつだって話を何度も遮ろうとする! そのくせ何が『いつも私はあなたのことで我慢してる』だ。そもそも人として持つべき態度自体が欠けているじゃないか!」
それがいくら正しくても、それを叫んだ時点で、あなたも正しくなくなってしまう。
「お父さん。確かにお父さんはよく我慢しているけど、我慢しているのはお父さんだけじゃない」
「俺はお前ほど賢くないんだ○○」
私が一番言われたくないことまで、父は言ってしまう。たとえそれが本当のことでも、自分自身では分かっていても、当人の口からは絶対に聞きたくないと思う言葉はある。
でも、私はもう感情的に言葉をぶつけることが、できない人間になってしまった。声を荒げることはできない。頭の中で言葉を組み立てているうちに、それを口に出したらどうなるかという問が私の首を絞める。だから私は、深く息を吸うことを余儀なくされて、もうその時点の言葉の持つ熱は消えている。
「私は怒りを我慢すると、爆発して大変なことになっちゃうから、我慢しないようにしてるの」
「それは分かってる。だから俺だって、大目に見てる。でも普通の人間は、成長する過程で周りの人間のために、自分自身で怒りを消費できるようになるもんだ。それができるようにならなかったのは、確かにお前のせいじゃない。でも、それに対して少しくらいは恥じらいをもったらどうだ? 負い目を持ったらどうだ? お前はいつだって、他の人間に配慮してもらっている側なんだから」
「でも、産まれてからずっとそうだったし、これは私がそうしたくてそうしているわけじゃないんだから、私は悪くない」
「俺だって産まれたときはお前と同じように思ったことを全部そのまま言ってたさ。でも、そんなんじゃ生きられなかった。俺はいつだって言いたいことを堪えてきたし、そうする限りにおいて認められてきた。言っとくが、我慢している人間は、我慢することが楽だから我慢してるんじゃなくて、その場で争いを起こさないために、最大限の努力を払って我慢をしているんだ。世の中の連中もそうだが、我慢と配慮ができない人間は、せめてその馬鹿さ加減を自覚してくれ」
「そんなの分かんないじゃん。他の人がどれだけ我慢してるとか、私全然想像できないし、生きてきて周りの人たちも全然想像してなかった」
「俺は想像してきたし、想像してたから、お前みたいに好き放題当たり散らしていいと思わないでやってきたんだ」
「私だって、その人が傷つくようなことは言わないように気を付けてるし、爆発したら、それこそ犯罪みたいになっちゃうかもしれないから、それだったら思ったことをそのまま言ってたほうがいいじゃん」
「それじゃ馬鹿だと思われるし、馬鹿同士で喧嘩になるから、俺は我慢するんだ。我慢できないお前は、いつも我慢してもらっているんだから、それ相応の態度で普段から生活しろ」
「なんで? 我慢してるのはあなたの勝手じゃん」
「勝手!? その場の争いを避けるのが、勝手?」
「お父さん……もうそのへんで」
「……もういい。こいつには何を言っても無駄だ。頭が悪すぎる」
「そうやってすぐ人を見下す」
「見下されても仕方がないようなお前が悪い」
お父さんが部屋を出て言った後は、母は私に愚痴を言い続ける。聞きたくないけれど、前に私も父の方に行ったら、母は何時間も泣き続け、家事がまともにできなくなって、結果的に私の負担が増えることになったので、これは仕方のないことなのだ。
「私だって、お父さんの言っていることが正しいのは分かってるもん。でも、あんなキツイ言い方じゃ、頭に血がのぼってカーってなって、何も分かんなくなっちゃうんだもん」
「そうだね。お母さんも、お父さんのことでたくさん我慢してるもんね」
「我慢してるもん。言葉を選ぶのは、私馬鹿だから下手だけど、できるだけ気持ちよく生活してもらえるようにって、色々やってるのに、お父さんはそんなこと当たり前だって思ってる」
お母さんだってそうだろう。私がこうやって愚痴を聞いたことに対して、いつ感謝の言葉を口にしてくれた? そもそも感謝なんて、思い付きすらしないんだ。この人は。
「おかしいよ。私ばっかり我慢してるのに、悪者扱いされて」
「お父さんも、大変なんだよ」
「そうやってすぐお父さんの味方する」
「私はどっちの味方でもないし、どっちの味方でもあるよ。二人とも大事な家族なんだもん」
結局、きれいごとを言うのが母を黙らせる一番の徳策なのだ。そうして、静かに泣き始めた母の手を握る時だけは、私は確かにこの世の多くのことを許せているような気がする。
でもどうだ、私は結局ひとりきりになったとき、悲しくて、悔しくて、やりきれない思いに囚われて、一生こんな思いをしながら生きていかなくちゃいけないのだと思うと、涙も止まらなくなってくる。
「なんで私ばっかり」
そんな言葉は届かないし、伝わらない。だから私は、自分自身に対してすら、その言葉をかけることができない。そんなのは不合理だ。皆、多かれ少なかれ我慢しているのだから。
我慢できる人が我慢するのは、ほとんどその場の平和のための義務なのだ。言葉を抑えられる人間は、場を調和できる人間は、常に必要とされている。だから私は……
「○○がいると、私、息苦しい」
中学時代、別の友達同士の喧嘩のあと、そのうちの片方と二人で話していた。その時に彼女は、何の呵責もなくそう言った。
「だって私、悪い子みたいじゃん」
意地悪な顔をしていた。私を傷つけて、楽しんでいた。私はその時はっきりと分かった。私がどれだけ人を大切にしても、人は私を大切にしてくれない。
私が人を大切にするのは、彼らの言い分によると、私の性格と、私の欲望がそうさせているらしい。
私がどれだけ努力して、どれだけ自分を押し殺して、こういうふうになったと思ってるんだ。私がどれだけ苦しんで、それでも耐えて、耐えて、ここまで来たと思ってるんだ。私だって本当は、もっと自分勝手に生きたかったよ。でももう無理なんだ。我慢し続けたせいで、私の心の奥底には、どうしようもない真実が溜まっている。だから、私の言葉は人を傷つけすぎる。
私の言葉は鋭すぎて、最初に頭に浮かぶのは、その人が一番傷つく言葉。
私は、言葉で人殺しになりたくない。目の前の人を苦しめたくない。
私は、嘘をつきたくない。でも、本当のことは言いたくない。
人生は苦しい。苦しすぎるくらいだ。でもこれが私の苦しみだというのならば、それを喜んで受け入れていたいのだ。
分かってる。分かってるんだ。これは私が選んだことだから、私はこれでいいのだ。
いつか耐えられなくなったら、私は全てを捨てて、馬鹿のようになって生きよう。
この世の全てを呪う悪魔のようになって、人々を殺す言葉を吐き続けたっていい。私にはその権利がある。
「いいや、そんな権利はお前にはない。お前だけじゃない。どれだけ苦しんだ者だとしても、罪なき者を傷つける権利など、誰も持っていない!」
嘘つき! お前は嘘つきだ! いや分かっている。私たちは両方とも嘘つきだ。
権利なんてものは、はじめから存在していなかったんだ。
私たちは押し付けられた。そしてそれを、無邪気にも受け入れた。その結果、私の胸には消えない憎しみが宿るようになった。
怒ることが出来なくなった人間は、必然的に憎しみを胸に秘めるようになる。プラトンも、パスカルも、ニーチェも、そうだった。彼らは冷たく燃える黒い炎をうちに宿していた。
だから私たちは、幸せにはなれないし、幸せになるべきでもない。苦しんで、苦しんで、それでも価値あるものを産み出さないといけない。
そうでなくては、この苦しみに耐えるだけの対価として不十分じゃないか!
苦しい……でもこれが、私を研ぎ澄ますのだ。私を、深くするのだ。私を、新しく作り替えるのだ。
でもこの憎しみが、私を優しくさせたのかもしれない。私は優しさを否定することができない。確かに私は、優しさに救われているのだから。
あの人は、私以上に優しい人だった。私はあの人のことが大好きだった。
憎しみを癒すことができるのは、愛情だけ。私は私を深く愛することを己の課題としよう。
この憎しみを抱えたまま、己の道を歩むために。
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