甘えん坊③

 女は男に媚びるもの、みたいな考えを持っている人は今でも少なくないと思う。テレビに出てくる女性にもそういう感じの人はたくさんいるし、ドラマや映画、アニメといった俗っぽい創作娯楽の中でも、ほとんどの女性はそういうものとして描かれている。
 でも彼女には、媚びるようなところが一切なく、かといって、媚びる女を嫌う子供特有の何にでも噛みつくような余裕のなさも感じられなかった。
 失礼な想像かもしれないが、彼女はきっと色々な男の人、それも多分、年上の人と関わってきたのだと思う。そうでなかったら、あんなに落ち着いて人を見ることができるとは思えない。

 そう思っていた矢先のことだった。ある朝、学校の校門前で彼女の後姿を見かけた。案外分かるものだな、と思った。隣には、前に告白してきた女性を思わせる明るい茶髪のポニーテールの子がいて、腕を組んでいた。声はかけられないな、と思った。もちろん、彼女がひとりで歩いていたとしても、多分俺は自分から声をかけることはできなかったと思うけれど。
「よしいつものやろ? 真子ちゃんからね」
「はいはいチンギス・ハン」
「フビライ・ハン」
「キヤクイ・ハン」
「チャー・ハン」
「サツマ・ハン」
「ナットウゴ・ハン」
「カクシン・ハン」
「ルーロー・ハン」
「タカシマシュウ・ハン」
「バーガー・ハン」
「お前食べ物ばっかやんけ」
 いったい何の話をしているのか訳が分からなかったが、ふたりは楽しそうに笑っていた。
「食べ物の話してたらお腹空いてきたなぁ」
「そういやたま、朝ご飯何食べた?」
「アサゴ・ハン氏ですか。えっとねぇ、しゃけとみそ汁とポテサラとレタスとトマトと味付けのりと雑穀米とおかわり」
「豪華だな」
「うち、朝と夕食同じくらいの量なんだよね」
「っていうかそんだけ食べて腹減ったはないだろ」
「でも、ご飯食べ過ぎて血糖値高くなりすぎると、下がってきたタイミングでお腹すくらしいよ?」
「あ、そうなんだ」
「だから、持ってきたお菓子を食べないように監視していてください」
「よかろう」

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 なんだか彼女の別の側面を見た気がした。嬉しいとも寂しいとも思わなかったけれど、かと言って何とも思わなかったわけでもなく、奇妙な気持ちになった。気にしないようにしよう、と思った。
 俺にはあぁいう会話はきっとできないだろうな、と思った。気楽に、なんでもない話をあんな風に楽し気に、冗談交じりに言うことは、絶対にできないだろうな、と思った。
 なんだかそう考えたとたん、急に寂しくなって、胸が痛くなって、慌ててかばんから本を取り出して、それを読み始めた。
「ねぇ。何読んでるの?」
 俺ははっと驚いて顔をあげると、近くの席の女子が不思議そうな顔で首を傾げていた。名前は、思い出せなかった。
「えっと、マーク・トウェインの……」
「難しそうなの読んでるんだね」
 俺が言い終わる前に、微笑みながら顔をさらに傾げて、俺の本の表紙をちらっと確認したのち、近くの席を引いて俺の方に向け、机に肘を置いて、じっと見つめてきた。何のつもりなのか、分からなくて、困惑した。
「気にしなくていいよ。見てるだけだから」
 勘弁してくれ、と言いそうになって、やめた。俺は黙って、不快を悟られないようにしつつ、息をふぅと吐いて、本に意識を向けた。文章は、自然と頭の中に入ってきた。女のことはすぐに忘れられた。
 ホームルームの鐘が鳴って、顔をあげると、いつの間にか女はいなくなっていた。あたりをきょろきょろと見渡すと、左斜め後ろに座っている彼女は、その隣の別の子とおしゃべりをしていた。単なる気まぐれだったのだろう。
 ため息をついて、本をしまった。先生がやってきて、教室は静かになった。

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 放課後、窓から夕焼けが差し込み、なんだか立ち上がって家に帰るのがめんどくさい気持ちになった。同じような気持ちになっている人間も多いのか、スマホをいじっている人もいれば、意味もなくくだらない話でだべっているやつらもいる。
 俺は本を読んで、暗くなるのを待った。ため息をついて、彼女、新田真子が言ってくれたことを思い出す。
 お前はいい声をしている。人を落ち着かせて、気持ちよくさせる声だ。今思えば、去年の二学期まで構ってくれていた子は、俺が少ない言葉で返事をすると、少し見慣れない表情をしていた気がする。目を細め、口を半分だけ開けて、呆けたような……時々ぎゅっと目をつぶって、その後、唇を引き締めてから、いつものように微笑む。その一連の仕草は、何度も見たものだから、記憶に焼き付いていた。それが彼女の人と接するときの癖なのだと思っていたが、実は、あの子は……
「ねぇ桐沢君」
「うわ」
 朝、声をかけてきた女子だった。考え事をしていた途中だったから、驚いて変な声が出てしまう。その子も一瞬驚いた表情をしたのち、どこかの漫画か何かで見たような、口に手を当てて、くすくすと笑う……気取った仕草をした。演技染みていると思ったが、言わないことにした。
「どうしたの? そんなに驚いて」
「いや、考え事をしていたから」
「何を考えていたのか、教えてもらえる?」
 どうしてそれを知りたがるんだ、と尋ねたかった。そもそも、なんでそんな風にほとんど話したことのない相手に急に話しかけられるのか、理解できなかった。拒絶されるのが怖くないのか。それとも拒絶されるはずなんてないと高を括っているのか。
 なんだかそう考えると、腹が立ってきて、ひどい言葉を口に出したくなってしまうが、そもそもそのひどい言葉が思いつかなかった。その子の顔をじろじろと眺めていると、こちらから見て右の眉毛の端の方に大きなほくろがあって、その子の顔の特徴はそれだと思った。すると、だんだん気持ちが落ち着いてきて、自然にほほ笑むことができるような気がした。でも、さっきまで自分が何を考えていたのか分からなくなったから、もう素直にそう言ってしまうことにした。
「君のせいで何を考えていたか忘れちゃったよ」
「え?」
 その子は急に顔を赤くした。夕日に照らされて、多分実際以上に赤く見えた。多分本人も、そう見えていることを自覚して、いっそう恥ずかしくなったのだろう。なぜそうなっているのかはよく分からないが、それはともかくとして、なんだか面白くて、いつの間にか自分も口の前に手をやって、くすくすと笑っていた。ふと我に返って、この手はなんだ、と思った。笑っていることを隠したかったのか、いや、ただ相手の癖が映っただけか? まぁ、いい。
「帰るか」
 なんで口に出したのかは、自分でもよく分からなかった。自分で言ってから「一緒に帰ろう」と言っているようにしか聞こえないことに気づいて、少し後悔した。
「うん」
 その子は嬉しそうに重たい鞄を持って、立ち上がった。代わりに持った方がいいような気がしたが、やめておくことにした。

「桐沢君さ、変わったよね」
 その子は隣をただ普通に歩きながら、こちらを見上げてそう言った。
「何が?」
「中学から」
「え?」
「あ、やっぱり覚えてないんだ。もしかして名前も分からない?」
「ごめん」
「貝原紗耶香。中二の時、同じクラスで、名簿近いから、結構喋ってたんだよ? 思い出せない?」
 目をつぶって、中学二年生のころのことを思い出す。確かその時、おかっぱ頭の騒がしいオタクの女の子とよく漫画の話で盛り上がっていた気がする。
「オタクの子?」
「そうそう。もう今は忙しくて全然漫画とか同人誌とか読んでないけどね」
「それこそ、君の方こそ変わったと思うよ。髪型とか」
「髪型くらいだよ。逆に桐沢君は、髪型くらいじゃない? 変わってないの。何があったの?」
「別に何も。元々内気な性格だったし」
「嘘嘘。誰とでもすぐ仲良くなる人だったじゃん。女の子からも人気だったし、男子からも尊敬されてた。サッカー部の副キャプで、身長も高くて、声もよくて。憧れてた子多かったよ?」
「よく覚えてないし、正直どうでもいい」
 自分の声から感情が消えてることを自覚して、しまったな、と思った。
「ごめん。ちょっと冷たかった」
「いや、別にいいんだけど……でも、何かあったのかなって。一年生の時でも、おな中の友達が、桐沢君は中三くらいから急に大人っぽくなって、どうしたんだろうって結構気にしてたからさ。やっぱり色々経験して、そうなったのかなって思ってたけど、高二で同じクラスになってから、全然そんな雰囲気もないし、なんかちょっと具合も悪そうだし」
「でもなんで今になって話しかけてきたの。二学期になって、今更。そろそろ受験も考えなくちゃいけない季節に」
「あー……いやその、それはまぁ、ほら、文化祭が終わって、ちょっと気持ちも落ち着いたというか。受験のことを考え始めるのはそうだけど、でも本格的に取り組むまで少し余裕あるじゃん? 私文化部だし、部活は忙しくないし、一学期は自分の友達関係固めるのとか、習い事のこともごたごたしてて、あんまり内気な男の子に話しかける余裕はなかったというか」
「そう。君も色々あるんだろうね」
「色々あるんだよぅ」

 その子も、一応家まで送ることにした。電車代が余計にかかるからと彼女は一度断ったが、せっかくだしもっと喋りたいからと言ったら、嬉しそうに笑って了承してくれた。
 暗くて危ないと言いつつも、彼女はいつもこの時間にひとりで帰ってるらしいから、自分がいるときだけそういうことを気にするのはなんだかおかしなことである気がした。
 だから、本当にただ俺は、人恋しくて、何でもないような話がしたかったんだと思う。実際、会話は弾んだ。中学時代の同級生たちが今何してるかとか、その子が高一のとき、変な男に付きまとわれた話とか、色々と興味深いことを聞かせてもらった。俺はほとんど相槌を打っているだけだったが、それでも楽し気に話す彼女を眺めているだけで、なんだか、結局自分が人間関係で求めていることは、その程度のことであるような気がした。

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 インターネットでぼんやりと記事を眺めている最中だった。女性の眉の手入れの仕方の記事を眺めていた。
 クラスの女子に、眉毛が急に薄くなった子がいて、あぁいうのはどうやってやるんだろうと興味を持ったのだ。抜くのか、ハサミで切るのか、それとも何か機械を使うのか。
 そういうことを何の気なしに調べている途中で、全然身構えていなかったから、急に電話が鳴った時、俺はびっくりして、居留守を使おうと思ってしまった。
 その電話が鳴り終わるまで俺はじっと固まって、スマホが静かになってから、そおっとそれを手に取って、電源をつけた。新田さんからだった。かけ直すことにした。

「はい。桐沢です」
「もしもし。明日の土曜暇?」
「暇だけど」
「ライン見てくれ」
「はい」
 彼女は通話を切った。今日の昼頃にすでに連絡があったようだった。こういうことがあっても、ラインをチェックする習慣をつけるつもりはなかった。

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「友達と喧嘩しちゃってさ」
 新田さんは何でもないことのように笑いながらそう言った。隣を歩きながら、どこに行くつもりなのだろうと疑問に思った。
「お前さ、前学校でうちらの後つけてたろ?」
「あぁ。友達と、よく分からない話をしてたよね」
「そんで、その友達に、お前のこと色々言われて、あんまりしつこかったから怒鳴っちゃって」
 意外だった。いつでも落ち着いてる新田さんが、友達に向かって怒鳴るなんて想像できなかった。
「お前に迷惑かけたくなかったし、実際私たちって、そういう関係じゃないし、そういう関係になるつもりもないわけじゃん? それに、あいつらはいい友達だけど、お前とは多分気が合わないからさ、変に興味を持たれると、あいつらお前にちょっかい出すだろうし」
「どういう人たちなの」
「愉快なやつらだよ。そろいもそろって頭の回転が早くて、私なんかが普通に見えちゃうくらい、頭が変なやつらだ。だいたいいつも五人で一緒にいるんだけど、その中じゃ多分私が一番女らしい女ってくらいに、個性的。人をからかったりちょっかい出したりするのが好きなのもいるし、お前からしたらただめんどくさいだけだと思う」
 新田さんは早口にそう言って、ため息をついた。
「なんか時々、急にめんどくさくなるんだよな。人間関係もそうだし、自分自身のこともそう。いつも真面目にやってるし、楽しくやってるけどさ、なんだか急に全部投げ出したくなる。この気持ち分かる?」
 俺はじっと黙って考えてから、答える。
「俺は多分、中三あたりから、投げ出したんだと思う」
 新田さんは立ち止まった。ぽかんと口を開けたあと、片方の口角だけ歪めて、ふっと笑った。四角い眼鏡とあいまって、知的なニヒリズムを感じた。
「そういえば、お前けっこう……あれだもんな。器用だもんな」
「人付き合いのこと?」
「器用というか、度胸があるというか。落ち着いているという言い方をしてもいい。だってそうだろ? 最近できた女友達が、別の友達と話しているところのすぐ後ろに立って、堂々と盗み聞きできるんだもんな」
「気を悪くしたなら謝るよ」
「ペルソナって分かる? 心理学の」
「何となく」
「お前と喋ってる時の私と、あいつらと喋ってる時の私は、微妙に違うんだよ。だから、その辺が混ざると、なんか気分が悪い。恥ずかしい気持ちにもなってくる。お前はそういう気持ち、覚えてるか?」
「分からない。でも、そういう気持ちがあるってことは分かる。それこそ……君が電話をかけてきたとき、俺がひとりで何をやってるかとか、そういう話だと、恥ずかしいというか、そういうのは分かる。プライベートを覗かれたような気持ちにさせてしまったなら、申し訳ない」
「プライベートではないんだよ。というか、学校生活なんてだいたい社交の場じゃんか。自分の部屋の中ほど狭くないし。でも、こう何というか、付き合ってる相手が変われば、そこで演じる自分も変わるから、そこが混ざるのが、こう、気持ち悪いんだよ」
「ごめん」
「責めてるわけじゃないんだよ。ただ、私はそう感じて、でもそういうのって、仕方ないことだとも思うんだ。
 お前に悪気がなかったのは知ってるし、あいつらだって悪気はなかったと思う。
 私が急に怒って、あいつらはあいつらで多分、色々と訝しんでると思う。それもまたなんか、妙に気になって、気分が悪い。
 あいつらは頭がよくて、容姿がいいのも多いから、いろいろ想像してると思う。男の取り合いとかそういうのを警戒して、女の独占欲発揮して、攻撃的になったんじゃないかとか、そういう風に思われてるんじゃないかと思って、なんか頭がぐちゃぐちゃになってくる。
 その、正直参ってるんだよ、私も」
 でも新田さんの顔は血色がよかったし、かといって緊張で赤くなっているわけでもなかった。ほんの少し日焼けした健康的な黄色い肌と、切れ長の、まっすぐこちらを見つめてくる瞳。薄い唇に、くっきりした眉。あの眉は、整えてあぁなっているのだろうか。
「俺は、なんで新田さんがそんな風に苛立っているのかは、分からない」
「私だって分からないんだよ。でも苛立っていることは確かで、これはひとりでじっとしてても、収まらないものなんだよ。それで、あいつらに連絡とっても気まずいだけだし、家族とはこういう話ができる関係じゃないし。
 だから、まだそんな仲良くないけど、お前を頼ったんだよ。いや……ほんとのところ、あいつらの中にひとり、こういう時にいつも相談する相手がいるんだけど、いつもそいつに頼ってばかりなのは悪いし、最近そいつもちょっと体調悪そうだったから……」
「新田さんは、周りのことをよく見てるんだね」
「よく見てなかったならお前になんて声かけてないわ」
「そうだろうね」
 俺は今日一日彼女に付き合おうと思った。彼女はきっと、俺に甘えてきてるんだと思う。
 前は、俺が甘えさせてもらったから、その分、お返しをしようと思った。
「まぁでも、悪いとは思ってんだよ。こんなこと言われても困るだろ? ただ感情をぶつけたいだけなんだ」
「好きなだけそうするといい」
 新田さんは、また歩き出した。少し静かになった。その後、思い出したように口を開いた。
「お前は不思議なんだよな。甘ったれで、いつも気怠そうで、生まれ持ったその……身長とか、顔とか、声とか、そういう自分の恵まれてる部分にも無自覚で、周りこと全然見てないし、興味もないくせに、どこか真面目で、引き締まった部分がある。私の友達にもいないタイプだ」
「そうかな」
「お前は自分に似たタイプの人間に出会ったことはあるか?」
「分からない。そもそも、そんな多くの人と関わってきてないから」
「お前はお前自身のことどう思ってるんだよ」
「甘ったれで生真面目で繊細な、女々しい男だよ」
「ふと思ったけど、お前村上春樹の小説に出てくる主人公みたいだな。ちょっと『やれやれ』って言ってみろよ」
 そう言って、新田さんは愉快そうに笑った。俺もつられて少し笑った。
「俺はそんなに女性に興味がないから、それは外れてると思う」
「村上春樹の小説に出てくる男って、マジで女にしか興味持たないよな」
「女にすら興味持たないよりはいいんじゃないかな」
「そういうやつは増えてるんだろうな」
「知らないよ」
「ともあれ、ちょっと落ち着いてきた。ありがとう」
「どういたしまして」

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 よく分からないけれど、満たされた気持ちで家路についた。
 甘ったれで生真面目で繊細な、女々しい男。はじめて自分のことをそういう風に言ってみたし、そうはっきりと自覚したこともなかったけれど、なんだかとてもしっくりきた。
 確かに俺は、甘ったれで生真面目で繊細な、女々しい男なのだ。
「甘ったれで生真面目で繊細な、女々しい男」
 そうつぶやいてみて、少しにやける。にやけてしまった自分に少し恥ずかしくなるが、だが自分の特徴、それも短所に近いような特徴をはっきりと言葉にして、それを声に出してみるというのは、意外にも楽しいことだった。
 そして自分のそういう部分が、誰かの心を慰めることもあるのだという事実が、なんだかもっと気分のいいことだった。

 必要とされていたい。俺は多分、自分を誰かに差し出すのはあまり得意ではなくて、ただ誰かに求められた時、その時々でただ突っ立っているだけというのが好きなのだ。
 つまらない男だ。何もできず、何もしようとせず、静かにただぼうっと突っ立っているだけ。でもそうしている自分が、一番自分らしい自分であり、落ち着いていられるのだ。何も気負わず、満たされた気持ちでいられる。不思議なことだ。

 でもそれは、彼女、新田さんが言ったように、自分に与えられた身長、外見、声といった恵まれた資質を持っていればこそ、成立するものなのかもしれない。もしそうなら、俺の本質はどっちにある? この退屈で平凡な心にあるのか、それとも、この……妙に女性を惹きつける表面の方にあるのか。
 あの「もっとイケメンに生まれてたらなぁ」とかって馬鹿げたことを言っている連中と俺の間に、いったい何の差があるだろう?
 そう考えると、だんだんどす黒い何かが腹の底にたまってくるような感じがした。事実、事実、とその何かは呟いている。
 ただそういうものを自分の中から追い出そうという気力すら、俺にはない。ただじっと、それを噛みしめるのみだ。


つづく


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