自虐と臆病さ

 私が自虐的な言葉を口に出すとき、私の中のある部分が満たされるのを感じる。多分これは、加害欲。

 誰かに対して反感を持った時、私はそれを絶対に口に出したりはしない。だからこそ、行き場をなくした攻撃性が自分自身に向かった時、自虐的な言葉に変わるのだろう。

 もうひとつ、自虐的なことを述べる際、他者からそれを指摘されたら困ってしまう自分の短所を先に言っておくことによって、相手を黙らせようとしている自分がいるのも感じている。
 つまり、自分が先んじて自分を悪く言っておけば、同じことを言おうとした人間は黙るか同意するかどちらかしかないから、少なくともその人から直接指摘されて傷つく羽目にはならずに済む。
 そういう弱さが自虐的な発言の原因になっていることをよく自覚する。

 自分の醜いところや劣っているところを認識することはもはや癖なので、普通はそういうことを思いついてもわざわざ文章にしたり口に出したりはしない。ただそういうのを言うことがあるということは、それだけの心理的な原因があるということなのだ。

 私が「私はダメなやつだから」と言う時、たいてい同時にこう思っている。
「誰かからダメなやつだと言われたくない」
「誰かから自覚しろと言われたくない」
「誰かから思い上がるなと言われたくない」
「誰かからお前が言うなと言われたくない」

 はっきり言って、私は攻撃に対する抵抗力が弱すぎるのだ。批判されるのが怖くて怖くて仕方ないから、自分の意見に根拠を持たせようとする。弱点がないか自分で探そうとする。見つけたら、それを自分で指摘する。
 誰もが認めざるを得ないようなことを言ったり、あるいは否定することがナンセンスなことを言ってみたりする。

 私が人に対して親切にするのも、多くの人を尊敬しようとするのも、結局は私自身が傷つきたくないからなのだ。

 おそらくは、私が学校に行かなくなったのも、匿名性を保ったまま好き放題ものを言いたがるのも、結局は、私自身が傷つきたくなかったからなのだ。


 私が学校に行かなくなったのは、耐えられなかったことが原因だ。多分……自分の凡庸さに対してもそうだし、自分の特異性に対してもそうだ。その両方に、私はずっと傷つけられてきて、もうそれ以上自覚したくなかったのだと思う。

 つまり、私は自分を特別だと思えるほど高い能力は有していなくて、かといって自分を普通だとみなせるほど他の人たちと同じ意見を持っているわけでもない。
 おそらくは、私以外の多くの人も、たいていは同じようなことで苦しみつつ、なんとか耐えて大人になっていく。

 私はただ、そこから逃げ出しただけなのだ。

 そして、二度と立ち向かうつもりもない。立ち向かう理由がないからだ。誰も私を導いてくれないし、私自身の進む道は、もはや……寂しいひとりきりの道だ。

 何もないわけではない。私には私の喜びと幸せがある。他に認めてもらわなくても、満足できることがあるということを私は知っている。一番いいとは言い切れないけれど、でも、私が選べるものの中なら、これが一番マシなのだ。

 私にとって人間はみんな怖い。誰もが私を傷つけようとしているように思えてならない。
 いや違うな。そんな意図を持っている人は滅多にいないけれど、私はあまりにも傷つきやすすぎるから、ただ誰もが、ただ普通に生活しているだけで、私を結果的に傷つけてしまうような気がするのだ。
 おそらく私自身も、ただ何気なく生きているだけで、誰かを傷つけてしまうことだろう。私の肌は敏感なのだ。そしてそれを悪いことだと思っていない。


 私が嘘をつき続けているのも、結局は全部が嘘なら、それが否定されても私が否定されたことにはならないから。

 バツをつけられるのが怖いけれど、マルをつけられたら怖くなくなるわけじゃない。そこにあるのは一時的安心と、次への不安だけ。
 私は私である限り、私自身の臆病さから逃れられない。

 だから、勇気が欲しかった。明晰な思考が欲しかった。結果が見えていれば怖くないから。
 思考の先にあったものは、未来は決して分からないこと……ではなく、未来は私自身の意思が決めていくということ。いや、過去すら、私自身が決めなくてはならないということ。
 たくさんの偶然と有象無象の事実から、私が重要なものを抜き出し、それを私自身の本質だと定義するのだということ。
 そして、多くの人にとって、その人自身の本質は、選んだものではなく、ただそこにあるだけの、低次のものであるということにも気が付いた。

 でも、それがどうした、という話なのだ。それでも彼らの方がうまく生きている。それでも彼らの方が人生に満足している。彼らの方が人の役に立っているし、彼らの方が現実が見えている。

 私はどれだけ考えても、結局私自身の中からは抜け出せない。

 口でどれだけ言って、耳でどれだけ聞いて、他の人が伝えようとしていることを私の中に取り込んでみたところで、結局私という体がそれを考えてしまった時点で、それは私用に作り替えられてしまう。

 自覚したことによって解決できる問題などほとんどないのだ。

 私が私の弱さや醜さを知ったところで、それで私がそれを克服できるかと言えば、そういうわけではない。

 努力も苦労も、結局は自らが価値を定めるものに向かってしか使えない。私にはあらゆるものが無価値に見える。
 その理由はきっと、私が臆病だから。

 対価を払うことが怖いから。私自身の中にあるものを、これ以上もう失いたくないから。

 あまりに多くの、強さを失ってしまったから。


 だから私は、自分の中に残ってるちっぽけな強さに希望を抱くしかない。

 私には何ができる? 私にはこれしかできない。

 嘘をつき続けること。認識を研ぎ澄ませること。本当のことを知り、本当のことを語ること。
 つまり、自分の強さと弱さを、私の感じたままに語ること。


 私が語りたいことを語ること。意味なんて忘れて。

 私の生き方が魅力的じゃないことなんて知ってる。私の生き方が苦しそうで、どうしようもないもののように見えることだって知ってる。でも私にはこれしかなかったのだから、その中で何とかやっていくしかない。


 不安なことがひとつある。
 他の人の声が聞こえなくなったら、私という存在も消えてしまうのではないか、ということだ。

 私という存在の拠り所は、結局は私が憎んでいる「彼ら」なのではないか。彼らが消えたら、私も消えるのではないか。私が私であるのは、結局彼らと私の関係の中で、たまたま私が痛い目にあったからなのではないか?

 私という存在を生かしていたのは、私の中に微かに残る、誰かの声のこだまなのではないか? 

 その歪なメロディーが私という存在なら、なぜ私はまだ生きているのだろう?


 私が生きている理由はきっと、ただ私のこの凡庸な肉体がそれを望んでいるからというだけなのだ。

 じゃあ、私のこの肉体がうまく生きるための最善手は、私が愚かになることなのではないか? これ以上考えて、さらに臆病になって、そういう風になるよりも、無謀にも、何も考えず、ぼんやりとニコニコしていることが、私という人間がよりよく生きるための最善なのではないか?

 私はもはや、愚か者として、阿呆として、そのように生きる道しか残されていないのではないか? それなのに、なぜ私はまだ、賢くなろうとしているのだろうか……
 より多くのことを知り、より多くのことを考えられるようになろうとしているのだろうか……

 実際、私は多くの時間を無為に過ごしている。できるだけ愚かになろうとしている。自分自身を忘れようとしている。でも、忘れられないのだ。忘れたくないのだ。私は私のことを、捨てられずにいる。きっと愛しているんだ。

 馬鹿だらけの世界で、せめてこれ以上馬鹿にはならないようにと、私は無謀なことを試みている? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 私はこの社会において、どうしようもなく役に立たない人間だ。それは事実だ。一番、無駄な人間だ。真っ先に死ぬべきとされる人間だ。
 それはどうしようもない事実であり、私の気持ちとは関係のない問題だ。

 働かない人間。他の人間と同じ意見を持たない人間。協調性のない人間。自分勝手な人間。
 こういう人間が……一番は言いすぎだな。こういう人間は、確かに厄介者だが、比較的いても構わない人間だ。
 すぐ大げさに言うのは悪い癖だな。事実は、ただ「今のところ役に立ってない」だけだ。いや……それも、事実と呼ぶにはあまりに曖昧か。役に立つという言葉すら、もう疑わしい。

 私はきっと何をやってもうまくいかない人間だ。原因はたくさんあるけど、何よりも大きいのは、私自身が、うまくやろうと思っていないことだ。
 何もかも、すぐに諦めてしまいたがる人間だからだ。一番大事なものをどこかになくしてしまった人間だからだ。

 多分、一番大事なものと一緒に二番目に大事なものも捨ててしまった。


 人生において一番大事なもの。それは、人生に対する誠実さ。私は自分自身の人生に対してあまりにも不誠実だ。
 次に大事なものは、他者に対する誠実さ。他の人と共に生きようとする意志。人を信じる気持ち。


 その両方を、私は必要なものだって分かってるのに、私の内側に存在しないことだけが、私にとってあまりにも確からしい。

 なぜ私が今まで、誠実さと信心を重要なものとして繰り返し強調しきたか……それは、欲しいからなのだ。
 なくしてしまったからなのだ。

 何のせいで? きっと、臆病さのせいで。


 私は今まで自分の臆病さから目を逸らしてきた。もしかすると、その悲しい事実が、一番私の希望に近いのかもしれない。

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