賞賛と価値


人に褒められて嬉しいのは当たり前だけど、人に褒められてやっと「私はそこそこのものが書けている」と認識するのは、明らかに自分に自信を持ち切れていない証拠だ。

誰だったか「自分をちゃんと愛せていない人間は、隣人という証人を呼んできて彼に褒めてもらわないと、自分を褒めることすらできない」といっていた人がいた。

まさにその通りである。私は確かに自分の書いた小説のうちのいくつかを「素晴らしいもの」として取り扱っているし、読み終わった後はそう感じるが、「そう思うのは私だけなのではないか?」という嫌な疑問が常に付きまとってくる。
そして「自分自身しか自分自身を評価できないなら、それはほとんど自分の感情のための過大評価である」という原則が頭に浮かび、私は慌てて証人を呼び出すのだ。読んでもらって、褒めてもらう。そうすることで、自己評価が不当でないことを確かめようとするのだ。

それが本当に優れているなら証人を呼ぶ必要などないのに。

私は私に自信がないから、乞食のように人に読んでもらおうとする。そうすることで、自分が間違っていないのだと確信を深めようとしている。
でもその「読んでくれている人」が、私と同じかそれ以上に「自信がないから、人の作品を読んで、お返しに自分のものも褒めてもらおう」という気持ちであるならば、私の試みはまさしく全部無意味となるわけだ。
だってそうじゃないか。その人の目は、私の目よりもさらに曇っているのだから。

結局人に読んでもらおうという態度自体が、もの書きに適していない態度なのだ。文章とは常に読み手のために存在し、読み手の能動的な行動によってその価値が決定されるのだから、書いている側が読み手に対して何らかのアプローチをしようということ自体がひとつの倒錯なのだ。
本当にそうなのだろうか? そう考えて読む価値のあるものを書ける人が、誰にも読まれないような場所にしかその文章を残さないのだとしたら、私は彼に「君は間違っている。君は読む人のために、有名にならないといけない。いや、私は君に有名になってほしい」と告げるだろう。読む価値のあるものは、目立つ場所に置かれる義務がある。それは共有財産なのだから、作者が己の心のうちに隠しておくのはほとんど犯罪的である。

では私の書く文章は、どうか。私にはこれが分からない。これがありふれたものなのか、それとも珍奇であるだけで、ほとんど価値のないものなのか。
ひとつ分かっていることは、私の無意識的な部分はまず間違いなく他者からの評価を欲していること。ゆえに私の書くものに、潜在的な価値があると断定することはできないこと。
もし私に書くべきものがなかったとしても、私は無理やりにでも文章を書かずにいられない。必要のない文章を書いてしまう可能性があるということは、それだけで私の文章の価値の低さを示している。

私はもっとまじめに、私の仕事に集中すべきなのだろうと思う。しかし私は根が嘘つきで不真面目なのだ。独り善がりで、気分屋なのだ。
自分の気質に逆らった行動は、その人間の気力を奪い、結果的に何もできない人間に作り替えてしまう。身近なところに先例があるから、人の振り見て我が振り直せということで、私は自分の本性に従っておこうと思う。

私にとって自分に厳しくしたり、重くて高い目標を立てることは、ひとつの誘惑なのだ。
そうすれば、きっと多くの人から評価される。そうすれば、きっと『成功している』と人から思われて、羨望のまなざしが得られる。その対価として私は己の在り方と、精神的な活力を失う。それは私にとって悪魔の契約なのだ。

だから私は、自分を虐待しようとしてしまう自分に気を付けなくてはならない。無理をしているなと思ったら、私はあえて低劣な方向に向かわなくてはならない。そうしなければ、疲れ果ててしまう。気に入らないことではあるが、仕方のないことなのだ。
体と心の言うことを無視して無理をしたなら、その先にある栄光をほとんど無気力のまま味わうことになる。それは幸福とは呼べない。


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