世人観察

「私は若い頃、ハンサムで女の子から人気だったんだ」
「私、今はもうオバサンだけど、あなたくらいの時はもうそれはすごい美人だったんだから」

 まぁ、そういうセリフはたいてい若者をうんざりさせる。それがどうした、という話なのだ。
 そしてそういう人たちは決まってこういうことも言う。
 「若いうちに楽しんでおきなさい。今を生きることに集中するんだ」と。

 苦笑いしながら「そのように生きたなら、私も三十年後、あなたみたいな『今』になるんでしょうね」と内心思っている。

 自分が若いころしていたように、今の若者にもさせたがる人々がいる。昔美人だったと自慢するおば様方は、悩んでいる美人を見つけてはアドバイスをしたがるし、若い頃に無茶なことをしたおじ様方も、騒ぎたがる若者たちを微笑ましく眺めている。きっと、彼らは自分の生き方を肯定したいのだろう。人間とは、人生とは、そういうものであると、納得していたいのだろう。
 あるいは、もう取り戻せない若さや活力を懐かしんで、自分たちのその浪費の在り方を、ひとつの必然として受け入れていたいのだろう。


 ちなみに、この現象はこういうタイプの人々に限った話ではない。若いうちに将来のために手堅く努力や苦労を積み重ね、そこそこの年になってから社会的に成功している人間もまた、彼らと同じことをやっている。
 若者たちに「努力しろ」「苦労しろ」と説教し「その先に素晴らしい成功があるぞ」と、疲れた体に鞭を打ち、無理やり笑顔を浮かべながらそう語りかける。基本彼らの方がうるさくて、多くの若者をうんざりさせるが、彼らに従うことにした若者たちは、自分自身の正しさを信じて邁進しており、彼らの言葉をありがたそうに聞く。そしていつか、自分もまた彼らのように、新しい若者たちに自分の成功を誇りながら、同じ道を歩ませようと説くことになると夢想している。

 結局そういう行動もまた、自分のそれまでの人生をより強く肯定したいから行うものなのだ。


 反対に、自分の人生の後悔を若者に教えたがる人もいる。「若いころ遊んでばかりだったせいで、今はこんな微妙な生活をしなくちゃいけなくなってるから、お前はもっと真面目に勉強したり、将来のことを見据えて行動するんだぞ」とか。「男の人にちやほやしてもらえるのは若いうちだけなんだから、その間にいい人を見つけて結婚にこぎつけなさい。そうじゃないと、独身のまま年をとって、焦る羽目になるわよ。私もそうなりかけたし、友達にもそういう人がたくさんいて、苦労してるんだから」とか。

 私は少し前までなぜ彼らがあんな嬉しそうに自らや周囲の失敗の話をして、そうならないように気をつけろと警告するのかよく分からなかった。しかしどうやら、彼らは「反省している経験豊かな自分」を若者たちに見せつけることに、一種の快楽を覚えているようなのだ。
 彼らが何かを言う前に、彼らの失敗をこちらが指摘した場合、彼らはすぐに不機嫌になる。
「前話してくれましたもんね。○○さんは、若いころ遊んでばかりだったせいで、今微妙な生活してるって」
 会話の流れで、敵意も馬鹿にしたようなニュアンスもなく、そういう風に言ってみると、彼らは苦虫をかみつぶしたような顔をする。痛いところを突かれたような顔をする。結局、彼らは自分の失敗を自分で言っている時だけは、それによって偉い自分というものを幻想できるのだろう。

 ただ、自分の生き方を肯定したいがために、他の生き方を否定するような、最初に語った大人たちよりは、自分の人生の失敗を反省することによって偉い自分を演出しようとする人々の方が、まだ若者たちの機嫌を損ねないし、言うことも聞いてもらえる。たいていの人は、成功話よりも、失敗話の方が好きだし、そちらの方を自分の生活に役立てられるというわけだ。


 ともあれ人生というのは残念ながら自分ひとりで決められるものではない。人が反対した道を進んでいる人だって、多くの人の助けを借りて進むしかないわけだし、反対する人への敵意によってうまく行くなら、それもまた、ひとりで決めたことだというのはすこし単純な考えなのだ。

 世の中の人は色々なことを言う。それぞれ別々の人生を歩んできてるし、その人自身が人生をまっすぐな目で眺めていることなんて滅多にないことなので、私たちはいつもそれぞれから的外れなアドバイスをされている。しかも互いに矛盾していることも珍しくない。
 ある偉い人が「人間はAであるべきだ」と言って、また別の人が「人間はAであるべきでない」と言ったりする。そのくせふたりは結構仲がよかったり。真面目な若者は、そんなことでも苦しまなくちゃいけなくなる。

 大人の言うことは聞かない方がいい、なんてことを言うつもりはない。大人たちは少なくとも、子供よりかは通常賢いし、より合理的な判断ができる。自分勝手さという点においても、子供よりはマシであることが多い。
 でも大人の言うことを鵜呑みにしても、ろくなことにはならない。彼らも彼らでたいていまだ自分の人生に悩んでいるのだから。

 大人というのは子供よりもプライドが高い生き物だから、自分の弱さや悪徳、欠点を、何としてでも隠そうとする。隠すすべに長けている。
 それを見抜く目を持っていると、疎まれる。だから、大人はみんな、目が悪いふりをして生きている。色々なことに、気づかないふりをして生きている。そして、ずっとそんなふりをし続けていると、いつの間にか本当に気づけなくなっていく。


 観察の結果、私は何を結論するのか。何も結論しないことにしよう。

 彼らはどうやらこのように生きているらしい。でも私は彼らのうちの誰かと似たような人生を歩むことはできないようだ。
 たとえば、三十年前、私のように、学校に行かず、毎日懲りもせずたくさんの文章を書いて、将来への見通しのなさに絶望しつつ、それでも何とか自棄にならず健康を保とうとしている十代の女がどこかにいただろうか? いたとして、そのうちのひとりが私たちに語りかけているだろうか?
 探せばいるのかもしれない。でも私は見つけたことがないし、見つけようとは思わない。自分の将来をあらかじめ知ってしまったせいで、人生をつまらなくするのなんてごめんだ。

 それに世の中自体が、テクノロジーの進歩によって大きく変わってきている。人々の考え方も、気質も、生活も、どんどん変わってきている。
 この先人生においてどうするのがよいかなんて誰も決めてくれないし、結局大人たちのアドバイスは、古い社会で生きるのに役に立つアドバイスであって、これからの人生に役立つとは限らないアドバイスだ。
 もちろんそこから得られる情報には価値がある。ある意味では、大人たちのアドバイスは、直近の歴史であると言えなくもないのだ。彼らを無視していい道理はない。どれだけお馬鹿に見えたとしても、真面目に聞く価値はある。だが従う価値はない。

 私の言っていることも、そう大して変わらないことだろう。真面目に聞く価値はある。だが従う価値はない。それでいいのだ。

 ただ私は、私の利己主義的な観点において、人はみんな賢くなってほしいと思う。
 馬鹿げた小競り合いとかは見るのすら嫌いで、無思慮な発言にはいちいち苛立って、自分が真剣に考えたことが人に伝わらないとそのたびに自分の言い方が悪かったんじゃないかと悩み始めてしまう私みたいな人間からすると、自分が楽に人と関わりながら生きていくには、人に賢くなってもらわないといけない。それも、ただ勉強ができるとか知識が豊富とかそういうことではなくて、自分の頭で考えて、色々なことを想像できるようになってもらわないといけない。

 まぁ私は、人類がもっとマシな存在になってほしいと、利己主義的に心底そう思っているんですよ。
 人類のことなんて愛してないし、滅びるなら滅びればいいと思ってるけど、でも私の生活がよりよいものになってもらうためには、人類がもっと親切で明るくて賢くて優れた存在になってもらわないと困る。
 本来、利己的に考えれば誰もがそうであるはずなんだけど、おかしなことに、ただ自分が人より優れていたいというだけの理由で、人を頭が悪いままにしておきたがる人がいるんだよね。搾取のためってのもあると思うんだけど。
 なんかもうそういうのがさ、超気分悪い。

 そんでもって、うまく扱えない人間は邪魔だからって理由でさ、私みたいなのが隅っこの方に追いやられるしかない現状もさ、利己主義的に考えて、腹立つよね。

 誰かから搾取されるのが嫌なら、自分が他から搾取するのが正当化されるのがこの現代資本主義社会なんだけど、もうさぁ、その二者択一ほんと気持ち悪い。

 恥ずかしい気持ちを抱えて生きていたくない。後ろめたい気持ちを抱えて生きていたくない。
 でも、恥ずかしい気持ちや後ろめたい気持ちをろくに感じることのできない人間たちと同じ空気を吸いたくない。

 将来が偶然によって決まってしまうことが不安で仕方がないけれど、でも世の中の大きな流れは、私の意思とは無関係に進んでいく。それがたまたま、私の都合のいい方向に動くか、それとも、逆の方向に動くか。

 ただ私は、この肉体に生まれてしまった以上は、私自身の方にベットするしかない。

 その理屈でいけば、その人間が破滅するにしても成功するにしても、その人自身の気質と現状の生き方に即した方に賭けてもらうしかないんだよね。
 人生には失うものなんてないし、得るものもないんだよ。そこあるのは一切の「体験」だけだ。
 積み上げたものは少しずつ時間によって切り崩されていく。富や地位、名誉など、何かを積み上げたなら、価値があるのは「積み上げてきたもの」ではなく「積み上げてきたという体験」の方なのだ。そしておそらくは「積み上げてきたものが目の前で崩れていくという体験」もまた、その積み上げられたもの自体よりも、価値があることだろう。健康的なことだ。
 賽の河原がお好きなら、そうするといい。私の父はそうしている。

 私には私の地獄があるので、この先何があっても、私はできる限り自分の健康を優先させようと思う。
 あぁ、最近気づいたのだけれど、世人が「幸福」という時、それはどうやら「健康である」ということを意味しているようだ。幸福を強く望むのは、必然的に皆病人たちである、というわけだ。
 幸福が何か分からないうちにそれを探そうとするのは、やめておいた方がいい。そのうち幸福が欲しくなってきてしまうから。つまり、病気になってしまうから。

 もうすでに幸福が欲しくなってしまった人、つまり病気になってしまった人は、とりあえずは幸福になることより、その病気を楽しむことを考えた方がいいかもしれない。小うるさい医者気取りの戯言のせいで、病気を悪化させることのないように。

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