単純な人生。私に約束された最小限の幸福。


 私の役割は終わったということなのだろうか。

 肩の荷が下りた。少し前なら焦燥や空虚感がやってきていたかもしれない。

 今は自由だ。何をやってもいいし、何をしなくてもいい。何もかもがどうでもよくなっているのに、体は軽いし、気分は落ち込んでいない。

 役割がないというのは、寂しいことだ。自分にやるべきことがひとつも残っていないというのは、拍子抜けなことだ。
 私には元々目標がなかった。ただ何かに急かされるように、歩いていた。誰もいないところを、ずっと。

 結局私は何も成し遂げず、道を歩き終えた。この先には、何もない。それが現実なのだと、はっきりわかった。私には何か特別な運命が与えられていると、心のどこかで今まで信じていたが、そんなものはないのだと、一切ないのだと、今ここで、確信した。

 理由は分からない。それはひとつの確信だ。実感だ。理屈によって導き出した答えじゃない。理屈は今まで何度も「私は特別な人間じゃない」と結論してきたが、私はずっとそれを疑ってきた。
 でももう私は、疑ってすらいない。それをひとつの現実として受け入れている。

 私には野心がない。幸福への欲求もない。
 はっきりあると分かっているのは、世界への愛情と、生への慣性と、不安定なこの肉体。
 私は、何も求められていない。ただ意味もなく、ここに存在していただけ。私は、この宇宙の塵のひとつぶ。

 私がこれまで必死にやってきたことが何なのか、今はもうどうでもいい。それに価値があってもなくても、決めるのは私じゃない。それは勝手に決まっていくものだから、私の知ったことではない。

 さようなら、魅力的であろうとした私の人生。さようなら、稀有であろうとした私の人生。さようなら、美しくあろうとした私の人生。

 私はもう、雲と太陽、そして時々横切る飛行機くらいしか見るところのない、この晴天のような人生を歩んでいくことになると思う。
 特別なことは何もない。ただありきたりなことが、ありきたりなまま過ぎ去っていくことが、私にとってひとつの喜びとなる。
 青い空の下を、健康な肉体で疲れるまで歩いていく。疲れたら、帰り道を。家に着いたら、それでおしまい。
 私の人生はそれだけで十分だ。悩む必要も迷う必要ももうない。

 今日も世界は複雑に動いているけれど、私の体はただ単純に動いていくだけ。難しいことは、なるようになればいい。
 私はどれだけ他者から無責任だと蔑まれようとも、私自身として生きることしかできないし、そのように生きると決めた。
 環境問題も、差別問題も、政治も経済も宗教も、全部知らない。私とは関係のないことだったし、これからも関係ないまま、それぞれの動き方で動いていく。
 私は宇宙の塵だけど、世界の一部だけど、現瞬間の人類という共同体の一部ではない。ましてや、この国家の一部でもなければ、社会の一部ではない。

 あぁそうさ。私たちは対等じゃない。なぜならあなたはまだ、巨人の指先だから。巨人の指先は、まだその巨人から与えられた「責任」や「命令」を大切に守ってる。「善悪」や「目標」を重んじている。私はそうじゃない。
 あなたからしたら、私は家畜か何かのように見えるかもしれない。無害なモブキャラクターのように見えるかもしれない。それも間違ってはいない。
 あなたには、私よりあなたの方が高いところにいるように見えるかもしれない。ううん。きっとそうなんだろうね。私はそれを否定する理由もないし、否定したいとも思わないよ。あなたにとってそうなら、それでいい。
 私にとっては、私とあなたは違う生き物だから、対等じゃないし、関わるべきでもない。

 いつかあなたが私と同じ場所に立って、この青い空の下、自分たちの存在が無意味であることを悟って、日々を簡単に生きようと欲するならば、そのときやっと私たちは対等になる。それまでは、私たちは同じところに立つことはできない。あなたは、高いところに立っている。私は、何もないところに立っている。

 私はただ、自分の人生を眺めている。世界は美しいし、面白い。何も特別なことはなく、ただあるがまま、そこにあるだけ。

 私たちは生を楽しんでいる。そして私たちが生に飽きた時、死は、自然と私たちのそばにやってきて、手を引っ張ってくれる。
 私たちの人生はちょうどいい長さで終わるようにできているんだよ。長すぎても、疲れちゃうからね。

 世界はたしかに複雑だよ。でも私たちは単純だ。
 私たちは、この単純な体で、複雑なものを理解しようと努めてきた。その成果も、あった。でも結局私たちは、単純に生きていたいんだ。複雑に考えたのは、複雑に生きるのが嫌だったから。複雑な作業を単純にしてしまいたかったから。
 この世界を、私たちが生きやすいようにしたかったから。

 たくさん道を違えたけれど、結局私たちはここに戻ってくるんだよ。ううん。違う。
 間違えた道も、きっと私たちの大事な道なんだ。
 私の人生はまだたくさん残っているから、この先たくさん間違えることができると思う。それも人生の楽しさだ。苦手なことをやって失敗して泣きわめくのだって、大事な人生だ。

 世界は美しい。私たちは生きている。生きることは難しいことじゃない。
 世界は光り輝いている。命を抱きしめて。

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