「私も馬鹿だが、あの人よりはマシだな」と思ってしまうこと


 今時、ネット上をただただ見て回ってるだけで、自分より馬鹿な人間なんていくらでも見つかる。
 会ったこともない人を「馬鹿だなぁ」などと勝手に思うのはあまり品性のよいこととは言えないが、思ってしまうものは思ってしまうもの。直感的な認識に対して人間は無力。
 特に、賢いふりをして自信満々に思い切り間違ったことを言い切っている人を見ると、即座に軽蔑の念を抱いてしまう。

 自分の気持ちが落ち込んでいる時、自分より愚かな人を見ると、少し安心している自分がいるのを感じる。
 「あぁ。私も馬鹿だが、この人よりはマシだな」なんて思ってしまう。

 おそらくだが、誰もが感じたことのある感情だと思う。もちろんすぐに消し去るし、忘れようと試みるけれど、私は忘れるということが苦手のようで(覚えようと思ったことはあんまり覚えられないのにね。印象に残ったことは忘れられないんだ)そういう感情を一度抱いてしまうと、また別の時に同じ人が何かを言っていると「あぁ、あの人前に馬鹿なこと言った人だ」と思ってしまう。いやなクセだと思う。

 いちいちそういうことで優越感なり安心感なりを感じることも、私が望めばできると思う。でも私は、そういう感情があまり好きじゃない。何というか……申し訳ない気分になるのと、自分自身の品性の低さみたいなものに嫌悪感を感じるのとで、正直、割に合わない。

 それに軽蔑っていうのは、態度に表しても損しかないから、表面上は絶対に相手と対等であるかのように振る舞わなくちゃいけないし、そうなると自分の感情を抑えるのに苦労する。行動と、認識にズレが生じるのは、普通に疲れる。本当は、そもそも軽蔑なんてしたくない。人と関わるのに、いちいち軽蔑してたら、疲れるだけだ。

 私は自分と他者を比較したくないけれど、私たちの認識は比較することで成り立っているみたいで、比較しないでいるためには、そもそも人と関わらないことか、認識の力を緩めるかのどちらかしか方法がないように感じる。

 認識の力を緩めるというのはつまり「考えないようにすること」。それは私の生き方にそぐわない。


 自分より優れたものを持っている人を見て、いちいち嫉妬なんてしたくない。自分より劣った何かを持っている人を見て、いちいち安心なんてしたくない。
 でも、自分の見るものを自分で選ぶということを、私はしたくない。目に入ったものは、全て私の認識の獲物だ。そうでなくては、生きているとはいえないような気がしている。
 私は、自分に都合の悪い現実もちゃんと見つめられる人間でありたい。それが私の、この人類という共同体における役割であるように、そう感じている。

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