幼い文体と賢いふり。長い文章に対する拒否反応。

あえて幼い文体で書くこと

 私は時々不思議に思うことがある。文章というのにはその人の人格が宿ると言われているけれど、もしその文章の文体を意図的に偽ることができるなら、その人の人格ってどこにあることになるのだろう、と。

 私はこの記事を書くにあたって、いつも書いている文章-五歳くらいの気持ちで書くことにした。自分が小学校高学年の時に書いていた文章を、再現してみる。

 わざわざそんなことをする必要はないと読者も思うかもしれない。私も、頭の中でそう思うけれど、でも必要ないからと言ってやらないのは、単なる言い訳であることが多い。私は自分の頭の中で「必要か?」という言葉が出てきたら、とりあえずかき消して、一度やってみることにしている。だから他の人からしたら「なんで?」と思うことをよくしてしまうから、変な子扱いされることは多いけど、同じくらい天才扱いもしてもらえるから、別に悪くないかなぁ、とも思う。
 私は自分のことを変な子だとも天才だとも思ってないけど、人というのはものすごく簡単に勘違いするというか、その人自身の勘や思ったことをすぐに信じ込むみたいだから、そういう人たちにとっては「実際にその子がどうであるか」よりも「自分の目にその子がどう映ったか」というのが重要であるみたい。
 私にはその気持ちはよく分からないけれど、とりあえず私は私が特別な人間だとは思ってないし、試しに自分を特別な人間を思おうとして見たことはあるけれど、しんどかったのですぐやめてしまった。

人間は賢いふりをする生き物

 ともあれ、人間っていうのは賢いふりをする生き物で、文体っていうのはそれがすぐに現れちゃうんだよね。同じ内容を言っていても、それをどのような言葉づかいで書いているかによって、その印象が大きく変わっちゃうから、文体から「その人がどのような目的で書いているか」っていうのは、やっぱり伝わっちゃうんじゃないかなぁ。
 だから最初に言ったような「文章というのはその人の人格が宿る」というのはあながち間違ってなくて、でも同時に人の人格っていうのは常に一定じゃないし、自分自身を騙して語ることもできるから、一面的に何かを決めつけることはできないんじゃないかなぁって思うんだ。

長い文章を読めない人たち

 あと、noteを見てる人ってどうやら難しい文章や長い文章を読むのが苦手みたいで(いつも私の文章を読んでくれてる人たちは除く。いつも喜んでるよ!)私が書いたもののうちたくさんスキがついた記事って、いくつかの例外を除いて千字前後なんだよね。すごいよね。ずっと続けてたらこんな簡単な法則が見えてくるんだから。
 多分読んでいる人ひとりひとりは「私は千字前後の文章が好きだ」なんて思ってないと思うんだけど、自然にそういう文章にスキを付けたくなるんだろうね。

 実は規定字数を超えるとアレルギーを起こす人が一定数いるのかも。noteでウケる記事の条件って「千字前後」じゃなくて「二千字以下」とかなのかな? 私、あんまり短い記事書かないしなぁ……
 なんか、短い文章ばかり好むのってかなりまずい病気なんじゃないかなぁって思うけど、まぁ他人事だからどうでもいいんだよね。それで一番損するのって、その人自身だと思うから。

(千三百字くらい。ちょっと長いかな? これで? 私全然物足りないなぁ書き足りないなぁ)

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