海に浮かぶ破れたビニール袋

「ねぇママ。私とパパ、どっちが大事?」
 困ったように笑って、少し唸った後、私の頭を撫でながら優しく語る。
「どっちも大事だけど、多分パパは私がいなくてもなんとかやっていけるだろうから、今はあなたの方が大事だよ」
「じゃあ私がもっと大きくなったら?」
「そのときは、本当に比べられなくなっちゃうだろうなぁ」
「じゃあ、ずっと子供のままでいる!」
「ふふふ。ずっと一番大事にされていたいもんね?」
「うん」
「でもね、誰かから大事にされることよりも、誰かを大事にしている時の方が、人は幸せなんだよ?」
「意味わかんない!」
「いつかあなたも分かるときが来るよ」


 私の中にはよく分からない記憶がたくさんある。だらしなく太った、人相の悪い母親が、ポテトチップスを食べながらテレビドラマを眺めている。
「あ、あんた、このゴミ捨ててきて」
「はいはい」
「はいは一回でしょ」
「はい」
「あと、あんた、昨日みたいに雨降り始めてから慌てて洗濯物取り込みだしたりしないでよね」
「はい」
「あと、私の靴下がお父さんのところに入ってたってお父さん怒ってたよ」
「はい」
 お小言が終わって、私はため息をついてゴミを捨てに行く。この人が、かつてあんな風に優しい言葉を自分にかけてくれたとは思えなかった。
「ねぇお母さん……」
「今テレビ見てるの分かるでしょ?」
「はい」

 母親のテレビドラマがCMに入った時、私はリビングに戻って母に質問をした。
「お母さん。大事にされるのと、大事にするの、どっちのほうが幸せだと思う?」
「は?」
 迷惑そうな顔をした後、少し考え込んだ。
「みんな誰かから大事にしてほしいから、誰かを大事にしようとするんでしょ」
「だよね」
「変なこと聞かないでよ疲れるから」
「ごめん」

 私はひとりきりになったあと、ため息をついて、自分の胸を撫でた。私は大事にされていないし、大事にすることもできていない。自分のことばっかり考えてるし、前向きにものごとを捉えることもできてない。
 時々私の頭の中に生じてくる、覚えのない光景や誰かの暖かい言葉は、いったい何なのだろう。昔見たアニメやドラマのワンシーンなのか、それとも私の中にいる神様が、私に正しいことを教えてくれているのか。
 心臓が痛いから、急いで生乾きの洗濯物を取り込んで、部屋干し用のハンガーラックにかけた。食洗器の中身を全部出すけれど、前に慌ててやったせいで皿を割って、お母さんを怒らせてしまったから、気を付けてやらないといけない。質の悪い皿とかコップとかばかりだから、落としてなくても乱暴に扱っただけでひびが入ったり欠けてしまったりする。そういうのを隠しても、当然家事は最近全部私がやってるから、私のせいだとバレるし、報告を怠ったことまで叱られる。お母さん曰く「言われたくないならちゃんとやれ」。正論だと分かってるけど、なんでそんなに完ぺきを求めるのか分からない。少しくらい失敗したっていいじゃないか……
「あんたが雑なことすると、私の仕事が増えんのよ」
 何度も言われたセリフだから、自動的に頭の中に生じてくる。
「あんたみたいな暗くて仕事ができない女はせめて従順で文句を言わない女にならないといい人と結婚できないんだから、厳しくしてもらえることに感謝しなさい」
 それが正しいことかどうかなんてどうでもいい。ただ私の母親はそんな考えを本気で信じていて、私に押し付けてくる。反抗したって、意味はない。私は友達も恋人もいないから、この家を出たって居場所はない。
 人付き合いが苦手で、人が多いところにいるとすぐ気持ち悪くなってくるし、手先も不器用で、笑顔も堅い。学歴もないようなもんだし、私はきっと一生この家に縛り付けられる。いや、多分いつか親が勝手に適当な男を知り合いの中から選んできて、私とくっつけようとしてくるかもしれない。想像しただけでも吐き気がする。
「死んだら、楽になれるのかなぁ」
 ひとりきりの部屋で布団にくるまりながらそうつぶやくと、涙がこぼれてくる。嗚咽は出ない。静かに泣くコツは掴んでいるから。声を出して泣いたら、お母さんがヒステリックになって私が泣き止むまで叩いてくるから。私が、叩かれたら泣き止むことを知っているから。昔からそうなのだ。本当に怖いことがあると声が出なくなる。
 怖いことをされたくないから、私は泣いていることが気づかれないように泣かれる技術を身に着けた。こういう意味のないところで、私は器用なのだ。
 泣きながらそんなことを考えていると、だんだん笑いがこみあげてきたが、笑っても怒られるから、引き笑いのような、変な笑い方で何とか誤魔化した。本当はもっと明るく快活に笑いたい。もし好きな人ができて、その人とふたりきりで生活ができたら、私は自由に、自分のありのままを取り戻そうと努力すると思う。本当ならそうしていたはずの色々なことをやってみて……

「あなたの人生にはきっと、希望なんてないよ」
 柔らかくて暖かい言葉が頭の中で響いた。私は間抜けにも「え?」と実際に口に出してしまう。
「しー。私はあなたにしか聞こえない言葉で話してるの」
 どうして、と頭の中で尋ねてみる。
「それはね。あなたが私を必要としたから。私は、あなたの幻想なの。あなたが押し殺した、もうひとりの私、と言ったらいいかな?」
 言われた言葉をもう一度頭の中で繰り返す。
「私たちはあまりにかわいそうなんだ。色々なことがうまくいかなくて、それを何とか自分の努力で覆そうとしているのに、誰も認めてくれないし、自分が何かできるようになればなるほど、それが当たり前のことだって言われて、どんどん色々なことを押し付けられていく。そのうち疲れ切ってしまって、いつもなら簡単にできたことすらできなくなっていく。環境を変えようと思っても、お金もなければ友達もいないし、そういうのを手に入れるだけの気力も体力もない。なくなってしまったんだね」
 それは私自身のせいなのかな。
「あなた自身のせいでもあるし、周りのせいでもある。何が悪いかって言えば、多分相性と偶然としか言いようがないと思うよ。あなたはそれほど特別悪い気質を持って生まれたわけではないし、あなたの周りの人間も、特別悪い人たちではない」
 でも、すでにこうなってしまったなら、私はもうどうしようもない。
「そうだよ。あなたはもうどうしようもない。現実の世界で、あなたが救われることはありえない。ありえなくなってしまった。フィクションみたいな劇的な出会いなんてあるわけないし、現実的なコツコツとした小さな努力の積み重ねの結果としての幸せも、あなたのその疲れて壊れかけた肉体じゃ、やり遂げられない。あなたはただ、悲しい現実を前に、海に浮かぶ破れたビニール袋のように、意味もなく、自らにとっても周りにとっても不愉快な存在として生を耐えていくしかない」
 その言葉を聞いても、少しも苦しいとは思えなかった。それが現実だと思ったし、いつの間にか泣き止んでいた。
「だから私が産まれたの。あなたは耐えないといけないし、耐えるためなら手段なんてもう選ぶ必要もない。もう狂ったっていいんだよ。狂ったっていいとあなたの無意識が思ったから、私が産まれたの。あなたの話し相手。あなたを心から愛する、あなたとは少し違う、別の存在。私はあなたを愛するために生まれてきたの。あなたがあまりにも、かわいそうで、救われない存在だから」


 その日は一日中彼女と頭の中で会話をして過ごした。このことは、誰にも言わずに秘密にしておこうと思った。

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 それを極限状態と言っていいのか分からない。でもこういう風にして私が自分の中の人格を増やしてきたのは本当のことだった。たくさんの人を観察して、その人の一番いい部分だけを盗んできて、自分の中で形にした。
 私の外は気持ち悪かったけれど、私の中は幸せだった。
 自分の存在がどうしようもなく空しい存在だと気づいたその時から私は自由になり、幸せになった。いつの間にか、鏡に映る自分が好きになっていた。私は確かに、大人になるにつれ、美しい女になっていた。でも、誰かから愛されることなんて、もう必要としていなかった。
「あなたを愛そうとする人は、たいていあなたを利用して幸せになろうとする人たちだからね」
 君は少し悲観的すぎるよ。
「私があなたの代わりに悲観的になってあげてるの」
 いつもありがとうね。
 でも実際の私は、そう悪くない人間だと思う。かつて私がそう思っていたような、希望のない人間じゃない。私は十分魅力的だし、愛されて当然の人間であると同時に、誰かを愛することのできる人間でもある。
「でも、あなたが愛するのにふさわしい人なんて、そうそういないと思うけどね」
 それならそれでいいんだよ。どうせ人生なんて、そう大したもんじゃない。耐えられることが分かったなら、あとは好きに生きればいい。私は世の中も両親も嫌いだし、臆病で心も強くないから、関係をよくしていくこともできない。でも、そういう苦しい環境でも私は幸せになれるし、満足して生きていける。私は賢いから。
「あなたは、強くなった」
 元々私は強かったんだよ。ただ、それに気づいていなかっただけだ。
「もう、私はいらないのかもね」
 また必要になったときは、よろしくね。

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