何のための賢さなのか

 恋愛に有利にはたらく、異性を惹きつけるための知性。
 己の名誉欲、虚栄心を満たすための知性。
 職業上の、社会における自分に与えられた役割を果たすための知性。

 一口に賢さと言っても、色々な賢さがある。それはそれぞれ異なっており、得意とする分野も違う。

 勉強ができるかどうかという意味での知性に絶対的な基準を設ける人がいるが、そういう考えはあまりにも短絡的でつまらないので論外。勉強というのは、従順さと記憶力、思考力を鍛え、測るものでしかなく、知性という点においてはたいてい基礎的な部分であるし、その基礎的な部分が出来ていなかったとしても、上にあげたような実際の役に立つ知性が育たないわけでもない。

 かつて勉強が得意だったからこそ言うが、勉強ができるということだけで誇るのは恥ずかしいことだと思った方がいい。それは、勉強が苦手な人に恥ずかしい思いをさせて交友関係を狭めるだけで、自分自身には一切の得がないから。
 勉強ができるか否かで大まかにはその人間の知性の高低を見ることはできるかもしれないが、絶対ではない。収入と似たようなものだ。高収入の人間が皆立派で、低収入の人間が皆ろくでなしかというと、そうではない。割合に差はあると思うが、その属性で他者に対する絶対的な判断をしたり、自分との間に「優劣」を置くのはやめておいた方がいい。自分が不利な立場にあったとしても、だ。少ない情報量で相手を自分より低い人間だと見做すのも、少ない情報量で相手を自分より高い人間だと見做すのも、やめておいた方がいい。そういうところに知性の欠如を感じてしまうから。

 大半の人は、肩書や評判で相手を判断する。もちろん付き合っていく中で評価を変えていくことが普通なのだが、ともあれ「判断保留」というのは、認識力で自分の本能を抑えつけなければ難しいことなのだ。
 別の言い方をすれば、私たち人間には「独断と偏見の本能」が備わっている。だから、認識力を十分に鍛えてこなかった自然的な人間は必ずこれに囚われている。子供は基本的にそうであるし、頭が衰えつつある老人もそうである。
 それ自体が悪いわけではないし、人はあまりこういう本当のことを言わないが、独断も偏見も、その人間の役に立つことは多い。少なくとも日常生活の中では、高校で習う数学なんかよりは、色々な独断や偏見の方が役に立つ。
 だが、当然のことながら独断や偏見は人との諍いの原因になるし、運が悪ければ人生を決定的に歪めるきっかけにもなりうる。重要な友人関係がおじゃんになってしまうこともある。

 が、あまりに独断や偏見が少なすぎる人間もまた、そのせいで人間関係がダメになってしまうことが多い。こういう人間はたいてい、他者の独断や偏見に敏感すぎて、耐えられない思いをするからだ。

 独断というのは「ひとりで考えて結論すること」だと思っている人が多いかもしれないが、私は「少ない情報量で恣意的に判断すること」だと思っている。独断的でない結論というのは、自分の身の回りの人だけでなく、遠くにいる人や、異なる立場にある人の意見を聞いたうえで、自分にとって都合よく考えないようにして出す結論だ。
 人は独断的になっている方が気持ちよくものを考えられるし、独断的な考えの方が、頭の悪い人間にとってはもっともらしく聞こえる。心地よく聞こえる。つまり、人間関係において、独断的な気質を嫌う人間は、そうでない人間と比べて、人が聞いて喜ぶ意見を持ちづらい、というわけだ。

 認識力が弱い人間は馬鹿にされるが、認識力が強すぎる人間は、厭われる。なぜなら、人は通常欠点だらけであり、認識も穴だらけであり、認識力が強すぎる人間はそういう人の欠点を全部認識したうえで、その気になれば指摘できてしまうからだ。

 分かりやすいたとえを言うならば、外見をそれなりに整えている人間にとって付き合いやすい人間は、人の顔の美醜が判断できる程度の視力がありつつも、自分が隠している肌の荒れを見抜けるほど視力が強すぎない人間の範囲である、というわけだ。
 
 人間誰しも隠しているものはあるし、気にしている欠点もある。自分でも忘れようと心掛けている過去の失敗もあれば、反射的に嫌ってしまう相手や観念というものもある。

 そういうのを隅から隅まで認識されては彼らにとって不都合なのだ。彼らは正直に生きようと欲しているが、自分の正直さに反するような「自分の中にある事実」には触れられたくないし、見られただけで気分が悪くなるのだ。


 さて、このように分析していくと「強すぎる認識力」は、人が生きる上で不利になることはあれど、有利になることはほとんどないように思われる。
 実際、認識力が並でも、高い知性を有している人間は多いし、そういう人間の方が人から好まれ、評価される。自分のことも他者のこともそれほどじっくり見ようとせず、どうやったら人を気持ちよくできるか考え、実行する人間の方が愛される。

 おそらく私の考えでは、認識能力とは危機察知能力なのだ。先ほど述べたように、人には独断と偏見の本能が備わっている。自分にとって都合の悪いことを自分の認識から外し、自分にとって都合の良いことばかりを認識しようとする。それは、人が健康に生きていくのに役立つ。つまらないことで不快にならずに済むし、他の人の欠点に気づかないでいることもできる。
 だが、周囲にそういう危機を察知することが苦手な人間があまりに多いとき、ある少数の人は極めて強い危機察知能力と、それを伝達する力を手に入れる。考える能力と、話したり書いたりする能力だ。

 人間は役割を分担する生き物で、通常人はあまり自分にとって不利なことや、不安定な未来のことは考えたがらない。だが皆がそのように考えていては、危険に気づくことができず、全員で破滅していく。二度の世界大戦なんかは、そのいい教訓になった。危機察知能力の高い人間、つまり体制に疑いを持ったり、批判をしようとする人間を抑圧した結果、抑圧する人間が多い国ほどひどい目にあった。

 小中学校でも、そうだ。極端な楽観主義と、正しいか間違っているかではなく、多くの人間がそれに納得していることが求められる。そういう環境下において、疑う人間や批判する人間は抑圧されると同時に、必要性が高まる。

 つまり、危機察知能力というのは、それが不要だと思われれば思われるほどに必要となり、そのような素養を持つ人間の能力、つまり認識力が高まっていく。

 私たちの最終手段は死による訴えなのだが、実際、楽観的な人間は人が自殺することなど想像もしていないし、だからこそ、身近な人が死んだとき、同化作用が引き起こされる。つまり、彼らの認識能力が高まるのだ。
 「なぜあの人は死んだのか」ということを考えざるを得なくなるのだ。そうすることによって、集団内における危機察知能力を高め、改善すべきところを改善できるようになる。

 私の吐き気の原因はおそらく、現代人はあまりにも危機を察知する能力が欠如しており、ものごとを考えていないことにある。
 つまり、そのような欠如自体がひとつの危険であり、その危険に人々が気づいていないということが、私には気持ち悪くて仕方がないのだ。

 共感性が高い人間なら分かると思うが、赤ん坊が自分に迫っている危険に気づかず高いところに行ったり、や危ない動物と無邪気に遊んでいたりすると、私たちはぞっとする。ハラハラして、見ていられなくなって、それでも見ていることしかできない場合、吐き気を感じる。
 私の人々に対する吐き気は、それに近いものであるような気がした。実際、この時代の人々は、自分たちが将来どんな目に遭うのか何も想像していないし、それを自分たちの力でどうにかしようとも考えていない。そもそも現状をろくに認識できていない。自分たちの狭い視野の中で物事を見ており、もっとも重要なことを見過ごしている。

 たとえば太平洋戦争間近のとき、陸軍は陸軍のことばかり考え、海軍は海軍のことばかり考え、財閥は経済のことばかり考え、大衆は自分たちの生活のことばかり考えていた。学者は学問のことばかり考え、政治家は政治のことばかり考えていた。国のことや世界のことを広い視野で見ている人間があまりに少なく、しかも抑圧されていた。
 そして、陸軍も海軍も財閥も大衆も学者も、みんなそろいもそろって破滅していった。少し考えれば、破滅するしかないことくらい分かることを、自分たちの目先の利益のために突き進んでいった結果、必然的にダメになった。

 この時代でもそれは起こりうる。人々は自分たちの分野や生活のことしか考えていない。それはもはや、自分たちの運命を偶然に委ねているのとそう大差ない。
 それが悪いことだとは思わない。分業は効率がいいし、あらゆることに不安になったり、たくさんの知識を収集して危険に備えるのは、膨大なエネルギーが必要になる。大多数の人々は、そういうことに力を使わない方がいい。

 問題なのはつまり、そういうことにエネルギーを使っている人間が役立たずとして片付けられてしまっている現状だ。ネガティブで、警告的で、共感性が高く、強すぎる認識能力を持つ警報装置のような人間が、この時代邪魔者扱いされることが多い点だ。
 もちろんそういう時代は何も珍しくはないのだが、しかしそのような優れた厭世主義者がよく生まれる時代というのは、それだけ危険の多い時代ともいえる。

 二度の世界戦争前後では、世界中で優れた文学者が多く生まれた。彼らの認識能力と情報伝達能力は極まっていた。人々はそれを受け入れることをよしとしていた。

 この時代は、おそらく、そのような警告を受け入れるための土台すらない。拝金主義者たちの本で市場が賑わっており、耳に痛く響く意味のある本を置くスペースがないのだ。実際……今の本屋には、人が読みたがるような本しか置いていない。人が興味を持ちそうな本しか置いていない。

 だが、そのような環境が、当然私たちのような人間の数を増やし、その認識力をさらに、さらに強くしていく。
 おそらくその過程で、早めの最終手段として自殺を行う人間もこの先増えていくことだろう。

 私たちは利益よりも、危機の回避を優先する思考回路を持っている。
 どのようにして利益を得るか。どのようにして勝利するか。そういうことを考えるよりも、どのようにしてより不快や不安の少ない環境にするか、ということを考えたがる。

 つまり、私たちは功利主義的な社会においてはかなり厄介な存在で、邪魔者扱いをされることが多いが、しかしこういう時代や社会だからこそ、必要な存在でもある。歴史上、幸福や利益を追求して破滅していった人々は無数に存在し、私たちがそうならない必然性なんてどこにもないのだから、私たちには私たちなりのちゃんとした役割がある。

 悲観的な予言、だ。私たちは誰よりも早く危険を察知し、それに相応しい言葉で聞く耳を持つ人たちに語りかけなくてはならない。私たちは、何が危険であり、何が安全であるかよく分かっている。強すぎる認識能力の役割は、それであるからだ。

 私たちは自分たちに備わった賢さによって苦しむことがあまりに多い。なぜこんなに賢くならなくてはならなかったかと言えば、その理由は、私たちの周囲の人々が危険を察知できないほどに、楽観的で、賢くなかったからなのだ。

 ただ、忘れてはならない。私たちはおそらく、私たち同士で語るだけでなく、いつか彼らに向けても語らなくてはならない。人類は共同体だ。私たちにとって彼らは不快の対象ではあるが、敵ではないし、むしろ仲間なのだ。私たちがあるから彼らがあるのではなく、彼らがあるから私たちがあるのだ。

 残念ながら、認識力という意味での知性は、集団としての人間が必要性を感じて作り出した「少数の例外」なのだ。私たちはある点では特権を有しているが、その分、彼らの持つ多くの権利を剥奪されている。無邪気に人を傷つけたり、他者を支配して悦に浸ったりする権利などだ。そういうことは、私たちにはできない。認識する力が強すぎるのだ。
 私たちの特権は、彼らとは異なる意見を持つことが許されている点にある。ひとりで新しい意見を産み出したり、わけが分からないことをわめく権利を、確かに私たちは有している。彼らには、できないことだ。

 私たちは私たちが利するしかない相手のことを愛していないが、それでも私たちは私たちの役割に対して誠実でなくてはならない。
 私たちは壊れかけた警報装置なのだ。

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