「生物の目的は生存にある」という偏見

 別に進化論の話ではないけれど、大前提に進化論があるから、それを最初に軽く説明するね。

 もういやというほど聞いてる話だから、知ってる人からすると「もういいよもういいよ!」って感じかもしれないけど、おさらい大事だからね。一応これは「現代で広く支持されている進化論」であって、唯一不変の真理とかじゃないから、そこんとこよろしく。あくまで、そこを土台にして話を進めていくよーっという話だからね。

 生物は世代を重ねる中で、(少しずつにせよ、急激にせよ)変化していきます。その変化自体は無目的、無作為的であると言われていて、今生きている種は、変化した中で「たまたま生き残った種」であると言われていまーす。
 私たちが「生きていたい」という本能があるのも、そういう本能が先にあって生き残れたというより、たまたま生まれたその本能が生存の役に立った(かもしれない)から、そこにあるのだ、という考え方でーす。

 だから「こういうやつが生き残る」とか「こういうやつは生き残らない」っていう考え方は、基本的に進化論的にはナンセンスで、そこにあるのは「こういうやつが生き残った」「こういうやつは生き残らなかった」っていう事実そのものなんだよね。
 将来どのような種が生まれ、繁栄していくかっていうのは、進化論においてはノータッチでないと矛盾してしまうんだよね。だって、生物の変化は常に、目的意識や内的な何かに主軸があるのではなく、外的要因や環境に主軸があると考えるのだからね。それらの要因と各生物種のマッチの度合いによって、誰が生き残るか決まるっていう考え方だからね。
 「環境に合わせることができたから生き残った」っていう考え方は、誤りなんだよ。どっちかっていうと「環境の方が自分に合わせてくれたから生き残った」という方がまだ近い。

 まぁいうて、色んな解釈の仕方があるし、色んな説もあってごちゃごちゃしてるから、あくまでこういう認識をしている人が現代では多いみたいだよーって話。今「進化論」って言うと、だいたいこういう考え方を示すよーってだけのことね。
 んで、それを土台に、生物の目的を生存や繁栄にあると考えることに、どんな問題があるのか論じていくねー。

 まず第一として、生物は目的を持って生まれたのではなく、ただ単に先にそこに存在を与えられ、そこからは偶然とともに広がっていったものとして捉える。それは、コップ一杯の水をテーブルの上にこぼした場合、ほぼ必ずその水がテーブルの上に広がっていくのに似てる。(その一部がテーブルの下にこぼれ落ちていくことにも似ている)
 それは、水自体や、それをこぼした私たちがそれを望んだからそうなったのではなくて、単純な物理法則に従った結果、広がり、こぼれて行ったと考える方が自然。生物も、そのように多様になり、生存している範囲も広がっていった、と考えられる。
 欲求というのは、生物にとって後から生まれたものだが、それが発生した時点で、生物の生存の役に立つようになった。というか、欲求自体が生存の役に立ったというより、生存に役立つ欲求、生存に害しない欲求を偶然手に入れた種だけが生き残り、致命的に生存を損なうような欲求を持った種は、数多生まれ、数多消えていった、と考えた方が正しい。

 さて、ここまで考えて、勘のいい人や、私と同じことを考えたことのある人なら、この先私がどのように推論していくかはだいたい見当がつくと思う。

 「目的」という語の定義にもよるが、それは基本的に欲求に基づいたものである。欲求を満たすために、その対象を明確化するのだが、その明確化した先にあるのが「目的」という語で呼ばれるのである。

 私たちは、偶然、あるいは必然に基づいて、生存に役立つ欲求を「元から」引き継いでいる。だが「後から」生まれる欲求というものが、人生において必ず生じてくることを私たちは知っているし、それが、どう考えても生存の役に立たないことがあることを、私たちは知っている。
 これは偶然的に、あらかじめ定めらえた法則に従って、そのようになっていっている、と考える方が進化論的には正しい。私たちは、役に立つ欲求も、役に立たない欲求も、各個体が、種全体の可能性を試すように、抱き、信じ、それに向かって突き進んでいく。生き残るのは、生き残ったものだけであり、それに役立たなくても、結果的に生き残ることはあるし、役に立ったとしても、結果的に生き残れないこともある。
 ともあれ私たちの「生存」に目を向ければ、確かに私たちの欲求は「正しい」と「誤り」に分類されるかもしれないが、その「欲求そのもの」「目的そのもの」に目を向ければ、それはほぼ確実に「生存」のために存在しているわけではない。それは単なる原始的な必然性であり、偶然性である。
「私たちの目的は無目的である。あるいは実験そのものである」
 という方が、進化論的に述べるのならば、正しい。「地球における生というのは、生そのものの実験場である」と言ったのが誰だったのか忘れたが、それが人間にも当てはまるのである。たくさんの人間が破滅していくのが当然であるし、そうであるからといって、それが病であるというわけではもない。それは内的な、宿命なのである。場合によっては、破滅に向かって歩く人間の方が生き残り、破滅を避けて生き残ろうと欲した人間が死に絶えることだって、ありうることだ。あるいは、もうすでに、そういうことが起こったあとに、私たちが立っているのかもしれない。

 いずれにしろ、ひとつはっきり言えることは、生存や繁栄は、単なる結果に過ぎず、私たちの目的は、ただ己の体と人生を使って、試すべきものを試す、ということにある。
 それまでの生物は、生まれた瞬間にサイコロを勝手に振られて生きてきた。私たちは成長過程で、サイコロの一部を手にすることができるようになった。出目だって、ある程度は操作できる。でも、その出目が何を意味しているのか、何を決定し、結果として何を残すのか、私たちには分からないし、そもそもそれは、分かりえないことなのだ。
 生のゲームはあまりにも複雑であり、私たちの目には、その目的が理解できない。何らかの生物外の存在が、それを産み出した可能性も否定できないし、そんなものはまるでなく、ただただ法則に従ってずっと振り続けられるサイコロだけがこの世界に存在するのかもしれない。
 何を考えていても「いずれにしろ」なのである。私たちはサイコロを振るしかないし、「目的」とか「動機」とか、そういう内的な意思に基づく問題ですら、それはサイコロが振られて決定されたことであり「生存」というものだって、たまたま出目がそれを示すことがあるだけなのである。

 もしこのような世界観において「生物の目的は生存にある」ということが正しいのであれば、それと並列的に「生物の目的は生存の放棄にある」ということも、正しくなくてはならない。それは確かに、両方とも現在進行形で行われていることなのだから。

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