認識する「私」と感情的に行動する「私」

 認識する「私」と感情的に行動する「私」は奇妙なほど互いに愛し合っている。

 認識する「私」は、感情的で予測できない「私」を認識すればするほど、「新しい発見、認識」として受け入れる。
 感情的に行動する「私」はそれを冷静な目で分析する「私」を命綱のように感じていて、これがある限り私は決して自分を見失わないと確信して行動できる。

 認識者たる「私」は認識そのものをつまらないものとして感じている。そこにはもう掘り下げるべきものがない。つまり、認識者自身には、認識されうる認識されていない部分が全く残っていない。なぜならばその冷静な認識者は定義上、認識以外のことをしてはならない存在だから。
 ゆえに認識者は、複雑で不明なものを求め、愛する。(もちろん正確には、愛することも求めることも認識者には許されていないが、しかし認識者の中にもほんの少しの感情は、混ざってくるものである。だって、人間だもの)
 行動者たる生物的な「私」は、いつも不安がっている。いつも何かを怖がっている。それなのに、時に大きな勇気を奮い起こす。困難なことに立ち向かい、乗り越えていく。


 統合された、ひとりの人間としての「私」は、認識と感情の間を自由自在に行き来しながら、「私」の目標地点を定める。それが、統合された「私」の実際的な姿になっていく。

 文章を書くというのは、自分自身を定めるということでもある。「書く前の存在している私」と「書き残された存在していた私」は、似て非なるもので、前者から後者が産まれたものであるから、ここに描かれている私は、全て私が求めた私なのだ。

 どのような形にしろ、本体から分離され、独立した実体は、その本体の内在的な願望によって産まれている。
 女から子供が生まれるように。

 たっのしいいー!

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