【自己省察】自分のことを頭でっかちの臆病者だと思ってたけど

 ある人が「○○って頭も使うけど、体もちゃんと動かすよね。いちいち試すというか、ちゃんと考えるのをやめられるタイプの人だよね」と私に教えてくれた。

 言われてみれば、私は確かに色々なことに挑戦している。挑戦しては失敗している。それでも、失敗をあまり重いものだと捉えず、次への糧にしている。
というかそもそも失敗を失敗だと思っていない。単なる「新規情報」として捉えている。

 要は、私が何かをやってうまくいかなかったのは、運が悪かったわけではなく、至極まっとうな「行動とその結果」であり、その時間、その行動をとった場合、そうなったというひとつのデータとして捉えるのだ。

 だからそれが、次の私の行動のための参考としてとても役に立つから、それをあまり否定的に捉えない。(もちろん、一時的に落ち込むことはあるが、大体その日のうちに立ち直る。あれ? 私実はメンタルめちゃくちゃ強い?)


 やっぱり自分の内側だけ見ていたり、自分の文章ばかり読んでいては気づけない自分の一面はあるのだなぁと感心した。たしかに、意外と私は行動派だ。
 頭で考えた仮説を試すのが好きだし、それが間違っていても別に気にせずまた新しい仮説を立てる。父親の血かもしれない。(父はそういう系の研究職)

 色んな人と関わるのは好きだし、自分から人に話しかけるのも得意な方だ。

 自分で言うのもなんだが、私はあらゆる偏見から解放されているので、常に相手の偏見に合わせることにためらいがない。だから、初対面の人には好かれることが多い。(八方美人な印象を与えてしまうこともある)(不可解な人物像を産み出して、周囲との軋轢を生むこともある)

 他者が見る私の姿は、何というか、私が思っている私の像とは全然違うのだろうなぁと思う。まったく想像できないわけではないのだけど、何というか……人によって違いすぎるというか。

 当たり前のことだけど、人はそれぞれ別のことを考えて生きているから、同じ人に対して異なる評価を下すことは多々ある。多々あるというか、それがデフォルト。
 頭が単純にできている人は「みんなはあの人のことをこう思っている」と単純化して捉えたがるが、実際には、それぞれ別の印象を抱いていて、たまたまひとつの意見が表出化されたとき、それぞれが「あぁみんなはそう思っているんだな」と勝手に思い込み、一律的な他者への評価が決定される、という図式ができているだけである。
(私がこういうことを言うと「すごく俯瞰的に見てるんですね!」と褒めてくる人がいるが、どちらかというとこれは、私自身が自分自身の考えていることと他の人の考えていることのズレの原因を探り出した結果だから、俯瞰的ではなく、極めて主観的に考えていった末の結論であるように思う)

 はいはいはい。話がわき道に逸れました。ともあれ、人が私に対して抱く印象は、その場によって全然違う。

 ある場では私は「博識な美少女キャラ」として扱われ(自分で自分のこと美少女って言うのエグいよね。でも、そういうキャラとして扱われることがあるのは事実なんだよ。あいつら頭おかしい……どうやら、若い女を過剰に褒めたりからかったりするのが楽しいらしい)ある場では「ちょっと病んでる子」として腫れ物扱いされる。別の場では「大人びていて常識的な女の子」として、目立つことすらなかったりもする。

 個人的に付き合っている人たちは、それぞれ別に私に対して何らかの解釈を持っているようだし(細かいことはよくわからない。多分本人たちもよくわかっていない)やはり、他者が自分をどう見るか、というのは、その他者によって非常に多様であり、一面的な解釈はしない方がいいものなのだと思う。

 ただ、全ての場、全ての人において、私に対する認識として共通したものはいくつかある。
「優しい子」「よく気を遣う子」「不思議な考え方をする子」「大人びていて落ち着いている子」

 多分だけど、これは素の性格なんだと思う。演じていなくても、というか、何を演じていても、人にそういう印象を与えるのだから、素じゃなかったら何なんだという話。

 なんか、自画自賛ばっかりでなんかやだな。
「自分語りで、自分のいい面ばかり語る人は印象悪い」
 みたいな記事が自分に刺さりそう。(いや、もっともな話ですとも。自分を客観的に見るというのはとても難しいものですハイ)

 んーでも。傲慢だという印象を与えることもあれば、とても謙虚だという印象を与えることもあって、この点ではすごくわかれるんだよね。演じていなくても、そうなることが多い。

 根は傲慢だと思うんだけど、処世術としての謙遜が癖になってるから、そういうことなのかもしれない。割と、相手の本質を見抜くセンスのある人は、私が傲慢な人間だってすぐに気づくのかもしれない。でも傲慢さって自覚してもなかなか治せないね。悲しいね。

 私、自分がどうなればいいのかよく分からないや。謙虚になったら「もっと素直になっていい」と言われるし、傲慢になったら、言われはしないけど「こいつちょっとうざいな」と思われているのを察する。
 どっちでもいいんだろうな。

 ともあれ、活動的であるのはいいことだと思う。フットワーク軽くて、深く落ち込むけど立ち直りが早いのは長所だから、そこは伸ばしていきたいな。

 精神的に自由であることは、私にとって当たり前。そうでなくては人生じゃないとさえ言ってもいい!

 慎重さは……あれぇ。私って実はけっこう、人間としてうまくバランス取れてるんじゃない? 適度な慎重さ、持ててるんじゃない?

 芸術家として生きるにはひとつひとつの作業が雑だけど、別に芸術家として生きると決めたわけでもないし、それはそれほど気にしなくていいと思う。
 ていねいさは美徳のひとつだけど、私はそれ手に入れようとしたけどダメだったから(手先が不器用で、単純作業が吐くほど嫌いだから、シャーナシ)割り切れる。

 ふぅむ。こう考えてみると、私ってかなり恵まれているんだなぁと感じる。相対的というわけではなくて、主観的に、私は私にとって生きやすい私なんだなぁと、そう思う。

 私、私のことが好きだ。

 いつか、こんな風に言えたらいいなぁ。

「私は私のことを素晴らしいと思ってる。素晴らしい存在である私が思いを寄せる、大好きなあなたが、素晴らしくない存在であるなんてありえない!」

 絶対的な自己肯定を、誰かを愛する根拠とすることができたら、それってすごく素敵なことなんじゃないかな。違うかな。

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