「感情をコントロールする」というのがよく分からなかった

 私は子供のころ、こう思っていた。
「感情というのは勝手に浮かんできてしまうものなので『コントロールする』のは無理なのでは?」
「『コントロールする』というのはつまり、制御下に置くということなのだから、自分が意思して『あ、今あの感情欲しいな!』と思って時に、それを自分に抱かせるってことだよね。大人たちはみなそんな高度なことをしてるの? すごいな」
 本気でそう思っていたのである。

「感情をコントロールする」というのが、「抱いた感情を隠したり、抑えたりすること」であることに気づいたのは、本当に最近になってからだ。
 私は、人前では自分の感情はあってないようなものだとして捉えていたから(つまり、自分が抱いている感情と、自分が実際にとる態度や言葉が違うことは当たり前だったのだ)「感情を抑えられない」という発想がそもそもなかったのだ。

 感情が抑えられなくなるような経験も、私にはほとんどなかった。あったとしても、それは周りの人間が「仕方ない」と思えるくらいような状況であったし「抑える必要のない場面」が存在することは、幼いながらも理解していた。(たとえば、葬式とか)

 私の中で「コントロールする」という語の中に、「抑えつける」や「我慢する」というニュアンスがなかったのも原因として考えられる。調節したり、管理したり、支配したりすることを示す語だと思っていたから、ただ感情を表出させないように我慢することを「コントロールする」と表現することが、理解できなかったのだ。

 コントロールは「我慢」や「抑制」よりも、高度な感じ(ニュアンス)がする。
 でも実際のところ、大人たちの言っている「感情をコントロールする」は、「感情を我慢する」「感情を抑制する」とほぼ同義であった。
 具体的な例においても「他のことに注意を向ける」とか「三秒間待つ」とか、「コントロール」と表現していいのか怪しいほどに単純かつ普通のことを言うから、私はそれを初めて知ったとき、困惑した。
「そんなに大人って、愚かなのだろうか……感情が抑えられないなんてことが、あり得るのだろうか?」
 それまで私は、大人がみんな「あえて怒ってる」「あえて不満をこぼしている」と思っていたのだ。自分の母親が父親に怒鳴り散らす時も、何か深い意図があってそうしているのだと思い込んでいた。実際はただ、感情の波に飲まれているだけ。

 いつ、そのことに気がついたかは覚えていない。でも気づいてからは、以前よりさらに他者に寛容になった。かわいそうだと思うようになった。どうしようもない人たちだと思うようになった。
 自分の話が理解されないことも、それが当たり前のことなのだと分かるようになった。

 感情にほとんど流されず、いつも理性的な父親を、それまで以上に尊敬するようになった。

 今思えば「感情をコントロールする」という言葉は、使う人によって全然違う意味を持つのだと思う。

 父は確実に、この語を「制御下に置く」という意味で使っていた。
 感情はむやみに抑圧しすぎると、思わないところで表出することがあるから、適度に吐き出しておく必要がある。上手に、他の人に分からないように自分の感情的なパラメータを自覚し、うまく管理する。
 父にとっての「感情をコントロールする」というのは、そういうことであった。

 そういう意味で「感情をコントロールする」という言葉を使う人もいるのだと思う。その場合ならば、確かにコントロールという語はふさわしいと思うし、高度なことをしているとも思う。


 ともあれ私は最近、感情を利用することを学んだ。感情は、理性によって抑えつけたり支配したりするのではなく、手綱をつけて体を動かすエネルギーに変えるのがいいのだと気がついた。
 そのことを「感情をコントロールする」と表現するのは、ふさわしくないと思う。
 それは「感情を理解し、利用する」ということだ。

 感情と共に進むということであり、感情に一定の権利を与えるということでもある。

 私は私の感情を愛しているから「感情をコントロールする」は、分からないままでいいと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?