人間を動物の一種として見ると

 人間を同族ではなく、動物の一種として見ると、気持ちが楽になったし、人間のことが嫌いでなくなれるような気がした。
 ようは私が人間嫌いになってしまう原因は、私が人間に対して、私自身に求めているのと同じものを無意識的に欲してしまうからなのだ。

 もし人間が平等であるならば、私が苦労してきた分だけ、他の人も苦労しなくてはならない。でも実際には人間は平等ではないし、平等であるべきでもない。
 それに私は私を愛しているが、私は全ての人間を私に対するのと同じだけ愛することはできない。私は美しくないものを愛することはできない。

 そういうわけで、私は人間をチンパンジーやゴリラに近い生き物だと思うことにした。するとどうだ? 彼らが何か間違ったことを言ったり、私のことを勘違いしたとしても、何とも思わなくなったのだ。
 それもそうだ。猫や何かが、急に私に懐き始めても、逆に私を怖がって威嚇してきても、私は私自身ではなく、その動物の性格に原因を見るし、私はただ私らしくそこにいるだけでいい。
 同じように、人間と付き合えばよかったのだ。はなから、対等などではなかったのだ。ほとんどの人間は自分の無意識的な部分や本能的な部分について無自覚であり、自分自身の行動や選択についてあまり深く考えていないから、自分の精神ではなく、自分の習性に従って生きているのだ。

 だから、動物に対して理屈を説いたって無駄であるし、彼らが理屈を求めるときでも、その求められている理屈は、私たちが愛好するような「確からしい理屈」ではなく「彼ら自身が信じやすい理屈」なのだ。
 そういうわけで私たちは、人間を馬鹿にするのをやめよう。猿や犬の頭の悪さを馬鹿にするのは、彼らに対する無礼にあたるのと同様に、我々とは異なるタイプの人間を馬鹿にするのは、当然その人間たちに対する無礼にあたるし、同時に私たち自身への無礼にもなる。
 猿や犬を、私たち人間と対等なものとしてみなすのは、彼らへの無礼であると同時に、私たち自身の尊厳への無礼でもある。私たちにとっての尊厳と、彼らにとっての尊厳は異なるのだから、お互いをあまり刺激し合わない方がいいのだ。

 私たちは人間に不満を持つのをやめよう。人間の社会に不満を持つのをやめよう。
 どちらかというと、私たちが彼らに飼われている側なのだということを、忘れないようにしよう。

 私は動物であるし、人間もまた動物である。そして私と人間は対等の権利を持っているが、別々の尊厳を有している。

 野性の象と、動物園の象がもはや別の生き物であるのと同じことなのだ。互いに遺伝子はそれほど異なっておらず、子を残すこともできるが、決定的に生き方と習性が異なる。
 私と人間の違いは、それくらい大きな違いなのだ。
 動物園の象は、おそらく「象というものは」と語るとき、その中に自分を含めることができないことだろう。彼は自分が例外的な像であることを自覚せずにいられないことだろう。
 私もそういう状況なのだ。私は野生の人間を軽蔑するのはやめよう。彼らが地獄に向かって進んでいても、だ。彼らの未来がどれだけ気の毒でも、だ。
 だってもはやそれは私とは関係のないことなのだから。私はもう戻れないのだし、戻るつもりもないのだ。

 私は、檻の向こう側にいる人間たちのことは、別の動物として見るようにしよう。檻自体は彼らの方が広いが、しかし彼らの方が窮屈で、しかもギャラリーが多い。互いが互いのギャラリーになって、馬鹿にしあっている。鏡はあるが、ほとんどの人間たちは目が悪いので、そこに映っているのが自分であることに気づかないまま対象を馬鹿にしている。
 彼らが「人間というものは」と語って悪く言うとき、彼らは鏡を見ながら欠点を探している。しかもそれを自覚していない。

 私は一時期鏡張りの精神の部屋で過ごしていた。そこに映るのは全て自分自身だった。
 その結果分かったことは、私と彼らは決定的に異なるということだった。
 それも別に当時の私からすれば、いい意味ではなく、どちらかと言えば、あまりよくない意味で、だ。

 私の長所や能力が彼らと間に壁を作っていたのではなく、習性が、私のどうしようもない不適合性が、彼らとの間に決定的な差異をもたらしていた。その不適合性とは何か。明敏なる知性である。高い知性を持つ者は、彼らと同じ態度で同じ言葉を話し、ともに並んで歩くことが、どうしてもできない。
 だから、そっとしておこう。お互いに。目で見て楽しむだけにしよう。
 お互いに、触れないようにしよう。どれだけ寂しくても、だ。

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