一日

 自転車で風を切って進んでいく。なんだか甘いものが食べたくなったので、スーパーに買い物に行くのだ。
 自転車のタイヤが少し潰れているのが分かる。段差を乗り越えるたび、少しだけ嫌な感じがするので、そろそろ空気を入れ直さなくてはならない。でもなんだかやる気がしないし、これくらいのことで気を揉んでいたらきりがないので、しばらくはそのままだと思う。
 なんだかやる気がしない、か。人生、こんなことばかりだ。何か心配事があったり、やらなくてはならないことがあると、決まって私の心の底から湧いてくるのは「なんだかやる気が出ない」なのだ。

 決められたことはきちんとやる。土曜日の午前中はどれだけ疲れていても二階の掃除を二時間ほどかけてやっているし(といっても、掃除機をかけて窓を拭き、家具や押し入れの中の埃をとれるだけとる程度のものだが)勉強だって、毎日一時間は最低でもやるようにしている。そう決めて習慣づけたことは、あまり苦にならない。でも、自分で選んでやることは、どんなことでも辛く感じてしまう。早く終わってくれと思ってしまう。そしてそう思っている限り、後回しにしたがってしまう。

 そんなことを考えているうちに、目的地に到着した。あまり混雑はしていない。水曜日の夕方のスーパーは、活気もなければ陰鬱な感じもしない、ほとんど特徴のない空気感をまとっていた。日常のあり様。それは私をうんざりさせる。せめていつもより元気があったり、元気がなかったりすれば、色々なことを想像する余地がある。想像して、楽しむことができる。でも今日はそうじゃない。あまりにもいつも通り過ぎて、ついため息がこぼれてしまう。

 さぁ何を買おう。甘いパンか、アイスか。四月に入って少し暖かくなってきたこの季節、アイスはなんだか違う気がする。和菓子はあまり好きじゃないから、当然却下。いや、お母さんのために一個買っておこう。あの人は、どんな言葉よりも一個のおみやげで喜ぶのだ。私が一生懸命編んだマフラーも、お店で何時間も悩んだ末に選んだマグカップも、全然喜ばなかったのに、ちょっと値段の張るお菓子を買うと、大喜びで私を「いい娘」だという。うんざりだ……私は百円の饅頭と羊羹をひとつずつ買った。
 私は親に対して失礼なことを思ったから、母を余計に喜ばせておこうと思う。そうすることで、私のこの軽蔑が正当化されるような気がするのだ。
 メロンパンが気になったけれど、カロリーも気になった。太りやすい体質ではないけれど、最近身長が伸びていないのに体重が二キロも増えてしまったことは、少し不安なのだ。元々痩せ気味だったから、今でちょうどいいとはいえ、一度太ってしまうとその後太りやすい体質になってしまうという話もある。
 何事も、大事なのは予防だ。メロンパンはやめておこう。でも甘くてカロリーの低いものは、おいしくない。なら、甘くなくていいからカロリーが低くて満足度が高いものを食べよう。そういえば、サラダチキンを私は買ったことがなかった。ハードな筋トレが趣味の友達に勧められて食べたことや、ミーハーな母が買ってきて食卓に出てきたことはある。
 味はあまり好きではなかったが、あれだけ食べた感じがするのにカロリーが低いのは、都合がいい。ストレス発散……私はストレスを抱えているのだろうか? でもストレスとは、何なのだろう? 私にはそれがよくわからない。ただ生きてきて、辛さも苦しさもなかったときなんてほとんどなかったし、胸が締め付けられたり、胃が痛くなったりするのも、慣れ切ってしまっていちいちそれを解決しようという気にもなれなくなった。
 もう休んでしまいたいと思っても、休み方が分からない。でも前に進めているのだから、いいじゃないか。どこまでいけば自分が壊れるかということくらいは、分かってる。私はただ、自分が壊れる直前で止めて、笑って、馬鹿になって、泣くのだ。
 そんなことを続けて、死ぬのだろう、私は。
 レジのおばさんは、なんだかとても辛そうな顔をしていた。「大丈夫ですか?」という言葉が口から出かけたが、結局言わなかった。それを尋ねたところで、業務中の彼女は何も答えられない。私には何の力もないし、何もすべきじゃない。あぁでも、あの辛そうな人が……誰かに救われる姿を想像して楽しむのは、素敵かもしれない。
 この退屈でどうしようもない日常に、少しだけ違うものが混ざっていた。それならそれで、私は喜ぶしかないのだ。レジ袋からスティック状のサラダチキンを取り出して、開けてみる。あまりおいしそうではない。
 一口。あぁ。なるほど。これは中々おいしい。歩きながら食べるとどんなものでもおいしくなるからかもしれないけれど、でも、おいしい。甘過ぎず、しょっぱすぎず。程よい薄味が口の中に広がって、そのパサパサ感も、さっぱりしてていい気分だった。甘いものを食べたときのような多幸感はないが、あの多幸感には落差がある。しばらくすると、また気分が落ち込んできてしまう。でもこれなら、気分が持ち上がるのがちょっとだけだから、ぐだぐだせずに済むし、元気なままでいられる。
 ベンチに座って、最後までゆっくり食べる。食べ終えたらすぐに立ち上がって、自転車に跨った。饅頭と羊羹とサラダチキンのゴミが入ったビニール袋を結んで自転車の籠にいれた。サラダチキンの汁が饅頭と羊羹にかかってしまうのは、まぁ仕方ない。大した量じゃないから、帰ったら洗えばいい。どうせ母親は気づかない。でもなんか、不潔だな。まぁいい。早く家に帰ろう。帰って洗えばいい話だ。自転車の空気を入れるのは……また今度にしよう。じゃあいつやるの? うるさいなぁ。もう疲れたんだ、今日は。勉強もしなくちゃいけない。やりたいゲームもある。軽い筋トレもしなくちゃいけないし、洗濯物も片付けないといけない。あぁ母さんが洗濯物をすでに片付けてくれていたらいいんだけど。めんどくさいなぁ。

 家の物干しざおには何もかかっていなくて、少しほっとした。空が曇っていたから、雨が降りそうだと母が判断したのだろう。これに関しては、おてんとうさまに感謝だと思った。代わりに今晩は、私が夕食を作ってもいい。母の元気がなさそうなら、そうしよう。
「ただいま」
 返事はない。きっとテレビドラマでも見ているのだろう。父は今日家に帰ってくるのだろうか? まぁあの人のことは気にしても仕方がない。酔っぱらって帰ってくれば面白いけれど、そうじゃないならいつも不機嫌でつまらない親父だ。いや、実際のところ、父がいつも不機嫌なのは、母のことが嫌いだからなのだ。私と二人で出かけるときはいつも上機嫌だし、いい父親だ。私は父のことが好きだ。いつも酔っぱらっている時みたいに寛容で、すぐ笑う人であればいいのに、とは思うけれど、それは無理な相談だ。
 父は言わずもがな、私が母を大切にしていることを、嫌がっている。自分の愛娘が自分の嫌いな人間を自分よりも愛していることに、苛立たずにいられるほど、父はよくできた人間ではない。母の方はというと、ただ愚かなだけだ。記憶力が悪い癖に、常に自分が正しいと思い込んでいる人だ。それでも私は母に今まで愛されてきたし、守られてもきた。それに、そんなに攻撃的な人じゃないから、話をまともに聞かずに相槌だけ打っていれば、そんなに一緒にいて苦しい人でもない。
 人が仲良くできない理由なんて、どれだけ分析しても、どれだけ理解しても、なんにもならない。改善できないなら、考えても仕方ない。でも私は、考えずにいられない性格なのだ。

 シャワーのノズルを閉じた。濡れた裸の私が鏡に映っている。ちょっと笑ってみる。少しやつれたかな、と思った。いつもよりもさらに口角を上げて、目を見開いてみる。疲れは感じられない。でもどこか、嘘くさい顔だ。作りもののような顔だ。化粧をしていないのに、下手な化粧をしている人みたいな顔だ。私は普段私の顔が好きだけど、時々どうしようもないほど嫌になる。きっと理由はないのだと思う。それが私の顔だから、嫌になるのだ。別に私は、「この人は自分より美人だ」と他人に対して思ったことがないし、思う必要を感じたこともない。私は私で美しいし、他の人は他の人で美しい。そこに統一的な基準を設ける必要も、優劣をつける必要もない。山の美しさと海の美しさを比べて優劣をつける必要がないのと同じだ。美しいものは美しい。ならそれでいいじゃないか。
 鏡から目を逸らして、タオルで体を拭く。胸を揉んで、股間に触れる。ちゃんと感じるから、私は不感症じゃない。安心してパンツを履いて、無意識的に用意しておいた部屋着をきる。軽くストレッチをしてから、脱衣所を出る。
 リビングに顔を出すと、真剣な表情でくだらない刑事ドラマを見ている母親がいる。顔色はよさそうなので、夕食は任せても大丈夫だろう。
「洗濯物ありがとね」
 言葉は返ってこない。聞こえていないのか、それとも返事をするのがめんどくさいのか。どっちでもいい。そもそもわざわざ礼を言う必要はないのだ。ただそれが習慣だから。
 私はリビングのドアを閉めて、トレーニングルームに向かう。和室の空き部屋にいくつか器具を設置しただけのもので、元々は父が使っていた部屋だった。父があまり家に帰らなくなってからは、私がその部屋を管理している。管理といっても、時々掃除をする程度だが。
 準備運動をして、タイマーを用意して、あまり汗をかかない程度に、体を動かす。私は女だから、別にそんなに筋トレを激しくする必要がない。ただこれも、姿勢が悪くなったり、腰が痛くなったり、肩や首が凝ったりしないための予防策なのだ。
 そんなに詳しくないし、ただ父がやっていたのを見様見真似でやっているだけ。父と私の間に、確かな愛情があることを、確かめているだけ。
 筋トレをするたびに、父のことを必ず思い出す。父が私に言ってくれたことを、思い出す。私は自分が愛されていたことを思い出す。遠い過去の話を思い出すように。それはそんなに古い話ではないはずなのだけど、思い出す回数が増えれば増えるほど、それとの距離が離れていくように感じられるのだ。
 もしかしたら、それを体験したのは私ではないのかもしれない、などと考えてしまうほどに。
 もはや映画の内容を思い出すみたいに、自分の記憶を掘り起こすことになっている。そこにいるのは体験している自分ではなく、見ている自分。過去の私は、今の私とは別人のように思えてくる。いや、実際に、別人なのだ。何度もやってきた哲学的な考察は、今はやめておこう。トレーニングに集中しよう。あまりに深い思考をすると、行動が疎かになる。
 ふつうの人は、考えながら作業をすることができないらしい。私にはそれがうまく理解できない。自転車を漕ぐときも、買い物をするときも、何かを探す時も、掃除をするときも、料理を作るときも、私は関係のない事柄を考えながらやっている。それでもミスはしないし、話しかけられれば普通に答えることもできる。
 でも、脳を全て使わないとできないような難しい作業ならともかく、そうでもない、ただ完了するまでの時を待つような作業をするのに、何も考えないでいることは難しくないか? 私には、何も考えずに作業をすることが、うまくできない。心や意識を殺すことがうまくできない。いつだって何かを考えるくらいで、ちょうどいい。そうしていないと、退屈で死んでしまうんじゃないかと思うくらいだ。

 トレーニングが終わって……次に何をしようか考えるのがめんどくさいから、私は顔を洗ってタオルで拭いたあと、自分の部屋のベッドに飛び込んだ。気持ちがいい。このまま眠ってしまいたいけど、今眠っても碌なことはない。ただ目をつぶって、五分だけ休もう。
 何も考えず……体の疲れに身を浸そう。


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