啓蒙主義と自己啓発本云々

 大衆啓蒙というのは不思議なものだ。
 貧しい階級に生まれ、エリートに敵意を持って、高邁な理想を掲げて「大衆よ立ち上がれ!」という人間は、たいていしばらくしたらエリート側に立つことになる。なぜかと言えば、そういう風に自分にできることを探して実行に移せる人間というのは常に少数であり、結局彼らが憎むエリートなる存在は、彼らによく似た人間を先祖に持つ者たちだからだ。

 つまり、大衆に啓蒙を試みている時点で、もうその人は片足をエリート側に突っ込んでおり、彼に足りないものはただひとつ、大衆への軽蔑と諦めのみで、それもいつか必然的に彼のものになる。かくして新しい「成功者」が生まれ、彼の子孫たちが、新しい「恵まれた少数の人々」として羨まれることになる。

 ともあれ、経済と技術が発展し、社会制度も洗練され、人々の平均化が進んだ現代日本社会において、大衆啓蒙というのはもはや「みんなのために」ではなく「あなたのために」に変わっている。もちろん、そちらの方がまだ現実に即しているし、売れる。
 「人間をまだマシな存在にする」という意味での「啓蒙」も、おそらくは社会主義者の立場に立つよりも、利己主義者の側に立った方が進むことだろう。

 結局、行動的な社会主義者は皆貴族的な人間なのだ。たとえ彼が「全ての人間が平等であるべきだ」なんてことを言っていたとしても、皆の先頭に立って人々を導こうとした時点で、人は彼を「普通の人より一段高い人間」として見るしかない。結局、貴族というのはそういう意味なのだ。ただそういう人間はたいてい愛情深く、身内思いであるため、どうしても子供たちを贔屓することになり、そしてそのような恵まれた環境で生まれ育った子孫たちのほとんどは腐敗していくので、しばらくすると平等への欲求が高まってしまうのだ。
 腐敗を憎むのは、貴族側に生まれていようが平民側に生まれていようが変わりはない。だからそれを正そうとして、実際に正した人間が、新しい貴族として地位と権力を手に入れていく。その繰り返しだ。
 貴族の家族愛が腐敗を生み、腐敗への憎しみが貴族を産む。

 そういう繰り返しはもう終わった。そのあとの時代を私たちは生きている。

 現代は、腐敗の少ない時代だ。言い換えれば、腐敗が小さくなると同時に薄く広くなり、もはや何が何だか分からなくなった時代だ。
 全ての人間が同じところからスタートするわけではないが、最低ラインは揃えられて、そこから一斉にスタートする競争社会。最低限の利己主義的傾向がない人間は真っ先に脱落していく。 
 だから「みんなのために」なんてのは、とうの昔から嘘に変わっているのだ。誰もそんなものは信じてない。ただ、自分が周りから恩恵を得るために、「みんな」の機嫌を損ねないようにする。
 貴族なき時代、というわけだ。行動する人間、発言する人間、勇敢な人間、無謀な人間、つまり貴族的な人間ではなく、相対的に優秀な人間、よくできた人間が評価される時代、というわけだ。

 それが道徳や社会倫理的によいかどうかは置いておいて、効率という観点で見れば、その方がずっと都合がいいし、社会主義的な判断としても、その方が好ましい。
 ただこのような社会において、かつての「立派な社会主義者」の居場所はない。彼はその辺のエリートと同様に利己主義的に生きることに迫られるため、居心地の悪さを感じつつも人並の成功を納める。順調に出世し、順調に人から尊敬される。

 何といえばいいか。啓蒙の没落と言おうか。大衆思想の死と言おうか。ともかく、元々大衆向けの思想の質はあまりよくなかったが、近年はもはや思想と呼ぶことすら難しいものが出回っている。
 つまり、昔の啓蒙主義者は「人々のために」と本気で思って(たとえ内容が馬鹿げていても)書いていたようだが、今の啓蒙主義者を名乗る人々は「自分が儲けるため」という気持ちで書いているように見える。
 私は昔の生真面目な啓蒙主義者の頭の悪さとその無謀な試みに気分を悪くすることが多いから、そういう人たちの本が売れなくなって本屋から消え、図書館の片隅でひっそりと佇んでいるのはそんなに嫌じゃない。

 それに、実際に人を啓蒙するのはきっと、ソフィスト的な、利己主義的な知性主義だ。道徳よりも、効率のいい利己主義の方が人を賢くする。なぜなら、そういうのはうまくいけばうまくいくほど利己主義に対して疑念を抱かざるを得ないから。成功することを目標にし、実際に成功してから、そこではじめて人は本気で自分の人生に悩み始める。悩み始める権利を持つ。
 成功したい。人より高い場所に立ちたい。そう思っている人間に高邁な思想を説いても、結局はその思想を使ってどうやって成功するか、ということしか考えない。だから、まずはできるだけ多くの人間に、彼の望むものを彼自身の力で手に入れる方法論を教えてやるのがいい。
 そういうのを読んだ人間の一割以下の成功した人間のそのうちさらに何割かは、自分の成功に空しさを感じ、そこでやっとものを考えるようになることだろう。だから、それがどれだけ不快であったとしても、現代の自己啓発本には価値がある。
 道徳的な自己啓発は基本的に、それを妄信する人間か馬鹿にする人間しか産み出さない。大衆とはそういう生き物だからだ。

 私たちには読む意味も理由もないが、彼らには読む意味も理由もある。自己啓発本は、利己主義的で、ものを考える習慣のない人間を、とてもよく教育する。その完成は、そのたぐいの本を軽蔑して、袂を分かつことだろう。
 彼に「俺は自分の力で成功したから、成功するのに役立つ本にはもう興味がない」と言わせることだろう。

 かつて古代ギリシャにおいて、もっとも人を哲学に導いたものが、その敵対するソフィストたちであったことは確かだし、ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、それをよく理解していた。ソフィストたちが力を持ち、人々を集め、信じられるほど、それを信じられなくなった人々が多数生じ、何が正しいのかもっと考えようと思うようになる。そうして哲学が盛んになる。

 ただ現代には科学があるので、人々はそちらの方に流れるかもしれない。しかし、現代のソフィストたちは科学を自分の都合のいいようにところどころ捻じ曲げつつ、だいたいは合ってることを言い続けるので、彼ら親切で優秀な売文作家に愛想をつかした人間が、科学にも愛想をつかすことも考えられなくはない。
 とはいえ、学問の世界の科学は、分野によってはかなりしっかりしているので、そちらに向かえばいいだけの話。やはり哲学に未来はないな。
 幸せになるために哲学やるなんてナンセンスな話で、哲学なんてやってる暇あったら筋トレしたり栄養学の勉強とかしてた方がずっと幸せになれるよ。それは本当。

 ただ、筋トレや栄養学の勉強とかに満足を覚えられるようになってる時点で、もう十分すぎるほど「啓蒙」は成功していると言えるよね。結局人間がマシな存在になるためには、それぞれが社会的に成功(満足)するしかない。社会的にうまく行っていないことを不満に思っている人間は、自分の力でそれを克服することが、マシな存在になる一番の近道だ。

 結局、もっともよく多くの人の蒙を啓くのは、充足感や満足感と、その先にある空虚感なんだよ。

 自分の人生がまだ空しくない人は、空しくなるくらい成功してみればいい。手の届くところまで手を伸ばしてみればいい。そのあとに、もし度胸があるなら、人々の喧騒から離れ、自分自身と向き合ってみるといい。欲しがるのをやめてみるといい。そうしてやっと人生が始まるのだ。

 余談だけど、何かに致命的に失敗した人間も同様に、自動的に人生が始まってしまう。私はそっちタイプ。
 勝つにしても負けるにしても、人生はサイコロ振らないと始まらないってわけだ。

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