政治のことを考えると苦しくなる


 現在の社会情勢を知れば知るほど、もう世界は救いようがないのではないかと感じてしまう。

 科学技術が発展した。農業の効率もよくなった。医学が進歩して寿命が明らかに伸びた。

 歴史の積み重ねによって、思想は深化していった。
 娯楽が多様になり、質もよくなった。文化の重要性を理解する人が増えた。

 まだ戦争はなくならない。影響力争いは、戦争がなくても起こり続ける。

 経済的な犯罪は、必要悪も含めてなくなることはない。

 つまらないことで、未来のある子どもや若者が破滅に追いやられる姿は、想像するだけで歯がゆい。

 世界はひっくり返らないし、ひっくり返すべきじゃない。ほんの少しずつでも前進し続けることが大切なのに、皆焦り始めている。焦って、短絡的な行動に走りつつある。
「大切なのは、速さだ。時代についていくことが、大事なのだ」
 何のために制限速度というものがあるのか、彼らは理解していない。いま世界はチキンレースのようになっている。
 今日もどこかの誰かが破滅する。次は大国かもしれない。いや、いずれどこかの大国が破滅する。

 ただ希望もある。世界中に、自分の頭で考える能力のある人はちゃんと散らばっている。よく考えて、自分の行動に責任を持つ人が、増えている。それは事実だ。長年の教育の成果だ。

 私は人類の未来を悲観していない。この時代の行く先はおそらく破滅であるが、破滅した先にも未来はある。私はそれに備えているし、その先こそが私の思い描く未来なのだ。

 その先に私たちの望む地獄がある。そうだ。私たちはユートピアは望まないし、ユートピアに近づかないことを残念がったりしない。
 私たちが望むのは、高度な不幸であり、高度な幸福だ。難しい事への挑戦と成功、そして失敗である。

 だとすると、この時代の政治情勢の難しさは、私たちが望んだものなのかもしれない。

 各個人でできることは限られている。でもできることをしないと。

 私たちにできることはなんだ? 対話か? 啓蒙か? 勉強か? 共感か? どれも、やらないよりはマシだ。

 知っているだけでは意味がない。しかし知らなければまず始まらないのだ。私たちは知るところから始めなくてはならないのかもしれない。
 たとえそれがどれだけ絶望的であっても、私たちはどのような絶望にも立ち向かうだけの強さがある。
 それが戦後の日本人の強さではなかったのか? 私たちが世界をリードすべきなのではないか?

 日本は民主主義国家だ。国民がやる気を出せば、政治家もやる気を出す。私はそれについては、政治家を信頼している。彼らは真面目だ。真面目過ぎるくらいだ。だからこそ、国民の意志を敏感に感じ取り、それに倣う。
 国民のやる気がないから、彼らのやる気も萎えてしまっている。問題を解決しようという意思は少なく、不正に対する感覚も鈍くなる。

 私は現代日本人にひとつ言えることがあるとすると「たとえ無駄だとしても、勉強をしよう」ということだけだ。
「私たちひとりひとりが、並の政治家以上に政治と世界の中での日本の役割について真剣に考えるべきだ」
 どれだけ政治を憎んで、どうしようもないことだからと、それから離れようとしても、政治について悩まずにはいられない。
 民主主義国家には、ひとりひとりに重い義務と責任が生じる。これは押し付けられたものだが、私は自分で望んで背負っている。

 理想論なのは分かってる。実際には、皆が自分のことで精いっぱいなのは分かってる。私自身が具体的な案ひとつ出すことができないのは分かっている。同時に、そういうものを無理に出そうとすれば出せなくはないが、無学な素人が出した案など、危険でしかないことも分かっている。ひとに見せられるようなものではない。

 私は何もできない自分がもどかしい。悲しいし、悔しい。

 私はこの時代のために何かがしたいのに、それができずにいる。道も開かれていない。私自身、道を無理やり切り開くほどの、政治への強い意志を持っていない。

 政治は罰ゲームだ。優れた政治を行った者ほど、早く忘れ去られる。
 政治家になると、賞賛よりも罵声を浴びることの方が多い。
 周りの人間の頭の悪さにうんざりすることばかり。それなのに、自分だけは清らかでいなくてはならない。
 私は信念をもって政治をしている人を、尊敬している。私の基本的な政治に対する思想や姿勢に真正面から対立するような政治家に対してさえ、その人が本気で政治家をやっているということに関しては、無条件で尊敬に値する。

 民主主義政治は、自分の尊敬する人にこそ、強い「NO」を言えるようでなくては、機能しない。

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