直せない短所

 人には直せない短所というものがある。短所というのは通常、その当人にとって厄介な部分だと認識されているものだと定義されるので、そのように考えていく。

 たとえば「朝起きれないことがある」とか「約束事を忘れてしまう」とか、そういうことは直せないことの典型例だ。

 私は短所を直そうとして、結果的に一緒に長所までなくなってしまった人間のことをたくさん知っている。
 余計なことを言うのを直せと言われたせいで、明るさや快活さ、親切さや勇気が失われた人を私は知っている。
 人の心を想像できないのを直せと言われたせいで、その人自身の考えていることが何なのか分からなくなってしまった人を私は知っている。

 私は個人的に長所も短所もない人間よりは、長所と短所の両方をたくさん持っている人間の方が好ましいと思っている。
 短所と長所は密接に繋がっていることもあり、直した方がいい短所と、直さない方がいい短所がある、と私は思っている。

 しかし人は厄介なことに、自分の快不快を優先したいがために、自分自身や他者に対して、大して考えもせず、直感的に「悪い」「よくない」と思ったことについて厳しい言葉を口にする。そうして他人を抑圧し、結果として何か大事なものを損なってしまう。(ゆえに、大して考えず「こうすべき」という風に表明することも、ひとつの欠点として捉えることができ、それ自体も抑圧の対象になりうるのだ。「すぐ人を叱ろうとする。それがお前の欠点であり、それを直さなければならない」という主張が、通ってしまうのだ)

 肉体的な不具合と、精神的な不具合は実際的には同じように捉えられる。肉体的な欠点、つまり早く走れないとか、身長が低いとか、そういう部分と同じくらい、精神的な欠点もなかなかに厄介で、本人にとっても直し難いものであることが多い。
 たとえば身長が高すぎることが欠点で、身長を低くしなければと思い、毎日かがんで過ごしたせいで、腰を痛める、というようなことが、精神的な欠点を直す場合においても頻繁に生じてくるのだ。

 傲慢な気質を持った人間は傲慢でいた方がいいし、怠惰な気質を持った人間も怠惰でいた方がいい。攻撃的な人間は攻撃的でいいし、攻撃的になれない人間は攻撃的になれなくていい。
 自分を守るために、自分とは違う性質を持つ人間を抑圧することが、その人間の健康にとって必要な、ひとつの気質であるならば、それも正当化される。動物が自分の身を守るために、威嚇するのと同じだ。(だが当然、そのような動物的な行動は、自分自身が動物的な存在だとみなされることに直結することを、忘れないでおこう)

 他者の欠点に反感を持つ人間ほど、自分自身の欠点にも反感を持ち、そのせいで長所をつぶしてしまうことが多いように思う。欠点に対して鈍感になること、無自覚でいること、あるいは意図的に気にしないことや、あるいは許すことも、人間には必要だ。
 「不寛容」という欠点は、色々な部分に害を及ぼすことが多い。だがこの欠点もまた、その人間の健康にとって必要不可欠なこともあるので、絶対的な悪だと見做していいわけではないことを、私の意見の正当性のために認めなくてはならない。それだけでなく、不寛容にも、一種の効用があることを意識しなくてはならない。

 「不寛容」に対しても「寛容」であること。私は、くだらない人間の欠点には興味を持たないし、寛容、というより無関心でいることができるが、よくできた人間の不寛容に対して寛容になることがあまりうまくできない。
 多分私自身の「不寛容であってはならない」という自分への抑圧の反射であろう。私は自分の不寛容さに対しても寛容でありたいのだ。

 欠点は多くても少なくても構わない。ただ、自分のものではない欠点はさっさと追い出すべきだし、できるだけ無関心であった方がいい。敵意はその対象に自分を近づけるはたらきを持つ、ということを忘れてはならない。
 私たちが怒りっぽい人間に反感を抱くとき、私たちは不本意な共感性によって怒りっぽくなってしまうし、怠惰な人間に反感を抱くときも、それについて何かを言う時、自分がやるべきことをそのときやっていないという事実が、あなたの怠惰な気質が顔を出している証拠となってしまう。「あなたがもし、他人の怠惰を指摘できるほど勤勉な人間であり、価値のある仕事を持っているならば、怠惰な人間に構って何か意味のない不満を漏らす暇なんて、ないじゃないか!」ということだ。

 反面教師、というのもひとつの言い訳でしかない場合が多いことも言い添えておこう。私たち自身の欠点を振り返るために何かを反面教師にするのはいいが、自分にはない欠点を持っている人間を反面教師にしようとしても、それは悪い意味での教えを受けることにしかならない。
 言い換えれば、何かを反面教師にしている人は、その対象と自分が近い存在であるということを、暗に認めているとも言える。その人が不満や怒りを抱いている対象の低劣さが、その人自身の低劣さを表すことがある、というのを自分自身に言い聞かせておいた方がいい。

 何かに不満を持っている人間や、何かを攻撃している人間は、どのような態度であってもどこか人を不快にさせるものがある。例外は、同じものに不満を持ち、同じものに攻撃したいと思っている人間。そういう人間だけは、同調し、賛意を示す。
 自分が誰かの攻撃や不満に同意を与えるとき、その時自分自身が何に対して憤っているのか自覚する機会が得られたのだと思うのがいい、と私は思う。

 その攻撃や不満が正当かどうかなんて、考える必要はない。人は不満を持つ時や、何かを攻撃するときは、すでにそこに正当性があるものだと思い込んでおり、自覚した瞬間に消えるのでなければ、そこに後付けの理屈を付け足して、余計醜い泥遊びになるだけだ。

 そう、今私がやっているようにね。私は泥遊びが好きな自分自身の気質を許している。


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