人は自分には理解できないものを価値がないものとみなしたがる

人は自分には理解できないものを価値がないものとみなしたがる

 よく見かける例を出そう。 
 「数学になんの価値がある」と文句を言うのは、基本的に数学が苦手な人だ。彼に対して理性的に「数学はとても身近にあって、これこれこういうところに使われてるから、すごく役に立っているんだよ」と説明すれば、確かに彼は黙ることだろう。だがそれで、彼の数学への反感が消えたわけではないし、彼は沈黙の中で意見をこう変えるだろうと推測される。
 「数学は社会の役に立っていない」という無知な意見から「私が数学ができるようになったところで、私の役には立たない」という主観的な意見に。

 彼に数学の価値を認めさせたいなら、数学の魅力について長々と述べるよりも、彼に勉強をさせて数学を理解させた方がいい。もし彼が数学で躓かなくなったら、まず間違いなく「俺は馬鹿だった」と素直に認め、積極的に数学の価値を認めるようになるだろう。
 それどころか、かつての自分と同じような考え方を持っている人間に説教を垂れるようになるかもしれない。「数学は社会の色んなところで役立っているんだぞ」とか、長々と述べるようになるかもしれない。

 冷静に考えてみると、彼の主張は常に、彼の生存にとって有利な主張であるということが分かる。
 つまり、彼は自分が数学ができていない場合、「数学ができない人間は劣った人間である」という観念がその場で広く信じられていると、彼にとって不都合であるので「数学ができていようが数学ができていまいが、大して違いはあるまい」と、主張したがるのである。それを皆が信じれば「自分が数学を理解できていない」ということは、彼自身にとって不利にならない。
 対して、彼が数学を学び、それを他者に対して誇れるくらいには理解している場合「数学ができていようが数学ができていまいが、大して違いはあるまい」という考えがその場の主流であった場合、彼にとって不都合であるから「数学は広く世の役に立っていて、数学ができるということは重要なことだ」と主張したがるのである。「数学ができる俺はすごい」ということにしたいのだ。


 これはあらゆることにも同じことが言える。人は何かを主張したいと思う時、無意識的に自分にとって有利なことを考えている。それを周囲に信じさせることによって、自分の立場を少しでもよくしようと目論んでいるのである。

 これは厄介なことに「自分にそういう傾向がある」と自覚している人間だけが、そういう傾向から遠ざかることができ、逆に、そういう傾向があるということを少しも考えたことのない人間の多くは、本人も気づかないうちに、このような醜い主張の仕方をしているのである。
 それだけではない。自らのこういう傾向を自覚していながら、あえてそういう傾向を一時的に抑え、公平な発言をしている人間であることを周囲にアピールし、ここぞというタイミングで自分にとって有利な主張を人に信じさせようとする人間もいる。

 論理的であるようにみえる主張がされたとき、それが正しい論理か正しくない論理か考えるよりも先に「それを信じる人間が多い時、誰が得するか」という風に考えるのは、この穢れた社会で生きる上で、重要なことなのではないだろうか。
 騙される騙されないということではなく、目の前にいる相手が何を欲望し、何に気を配っているか考えることは、色々なことを判断するのにとても役立つ。

自分にとって不利なことは積極的に認め、自分にとって有利なことは積極的に疑う


 私は自分には理解できない分野の価値を、高いものとしてみなしている。私は特別頭のいい人間ではないし、記憶力も並みで、しかも怠惰な気質を持っているから、あまりに多くのことに関して無知である。

 自分より優れた人間がいて、その人が自分より多くの知識を持っていて、その知識が生きる上で有利にはたらくということ。彼らは、自分という人間よりも尊重されるべき人間であるということ。
 そういうことを認めるのは、とても難しいことだが、高貴なことだ。自分より優れた人間に、積極的に道を譲ること。崇拝するのではなく、尊敬すること。彼らにより多くの名誉、地位、権利を認めること。

 私も結局は利己的な人間ではあるのだが……私は誠実さそのものに価値があると思うし、私は誠実でありたいと思う。
 私が誠実な人間であるから、誠実さに価値があると考え、主張しているのかもしれない。もしそうだとしても、それはそれで決して悪いことではないように、私には思える。

 私が私の誠実さで何か得をするなら、それは嬉しいことであるし、私の誠実さが私に損をさせるなら、それは私の誠実さがそれだけより誠実であった、ということでもあるのだから、それもまた、とても嬉しいことだ。

 知的な誠実さ。それは、自分にとって不利なことを積極的に認め、自分にとって有利なことを積極的に疑う、ということだと思う。

 誠実さは生まれた時から備わっているものではない。少なくとも私はそうだった。幼いときは、ずるばかりする人間だった。自分が得するための嘘をついてばかりの人間だった。

 誠実さは、育つものである。他者に対して誠実であってほしいという思いが、自分自身を誠実にするのだ。
 騙し、騙され、追い落とし、追い落とされ、それに疲れ、そういうのがない世界を欲する。そういう世界を実現するには、誠実になるしかないのだ。だから、たとえ周りが誠実でなくとも、自分自身だけは誠実でなくてはならないし、その誠実さゆえに破滅するとしても、それはひとつの名誉であると言える。

 ひとつの能力を持っている人間が、その能力について、それを持っていない人間に対して過剰に主張するのは不愉快であるし、同時に自分自身が何か秀でた能力を持っている時、それを過小に扱われるのも不愉快だ。
 だから私たちは、私たちの持っていない能力と、私たちが持っている能力を対等な場所において評価せねばならない。決して、自然状態の認識、つまり自分にとって有利な認識にとどまっていてはならない。そのような認識は、自己への過大評価と、他者への過小評価を産む。そしてそれらが互いへの侮辱となって、争いへと繋がる。
 私たちは私たちの都合のいいようにものごとを考えたがるが、そのようにしている限り、自分にはないものを持っている人や、自分の持っているものを持っていない人を、敵として扱うことしかできなくなる。自分と同じ種類の人間しか、愛せなくなる。異なるものを持つ他者と、互いに認め合い、尊重し合うことができなくなる。狭い価値観の殻にこもって、いつまでもいつまでもくだらない言い争いをしたまま一生が過ぎて行ってしまう。

 何度も言うが、私たちは私たちにとって不利なことを積極的に認めるべきであるし、私たちにとって有利なことに関しては、積極的に疑っていくべきだ。
 そのように生きるのは大変なことだし、息苦しいことでもあると思う。でも、他者への不信や不満の中で一生を過ごすよりかは、自分自身への疑いとともに、少しでも誠実であろうと欲して生きる方が、より善い生き方であると私は思うのだ。

 いや、私はそういう生き方しかできないから、そう言っているのかもしれない。私ひとりが誠実である場合、私はひとりで死んでいくだけだから、そうなっては私にとって不都合だから、他者にも誠実であってほしいと主張しているのかもしれない。

 だとしても私は、それ以外に主張すべきものを知らない。


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