それに何の意味があるだろうか
「それに何の意味があるだろうか」
頭の中に浮かぶその言葉は、どこか冷たくて、ちょっと賢い感じがする。
疑ってかかる態度には、認めたくなくても多少知的な印象がある。しかし、答えが出せないならば、それはその知性が見せかけであることを示している。
無理にでも答えを出して、行動しなくてはいけないのだ。あるいは行動しないにしても、行動しないことを決定し、それに自分自身を従えるべきだ。
私はまだ何も私自身に命令できていない。私の知性は役立たずで、誤りを見つけるだけしか能がなく、正しさを規定するだけの気力も勇気もない。
マークシートの問題は簡単だ。記述問題だって、出題者の思考パターンは大体決まっているから、その傾向に合わせて、相手が欲しがっているであろう答えを書いていけば、たとえ的外れだったとしても部分点はちゃんともらえたりする。
結局大事なのは、言葉ではなく態度や仕草で自分を賢く見せようとすることなのだ。この社会では。でも私はそれに吐き気がするし、はっきりと間違っていると思う。
私はそれを拒絶する。拒絶することを選択した。
それが私を苦しめているのも知っている。楽で合理的な道は、受け入れてその中で目を逸らしつつ、時に向き合っていく他の人たちと同じ道だということも、分かっている。
彼らがいつも目を逸らしてばかりでないのも知っている。現実をどうしようもないと思いつつ、それなりに自分を守りながら、自分にできる範囲で世界に貢献していく。確かに彼らは立派だ。
でも私は、その道を選ばなかった。選べなかったし……違う。私が選びたくないのだ。大嫌いなのだ。
取り返しのつかないことはある。私という存在はその結果なのかもしれない。皆が「きっと大丈夫」と思っていた結果、私は意地になって「私は大丈夫じゃない」と言い張っているだけなのかもしれない。
当然、苦しんでいるのは自分だけだし、そんな自分に酔っているというわけだ。でも本当にそうなのだろうか? 本当に自分で選んで苦しむことが出来ているのだろうか? そもそも私はそんなに自己陶酔的だろうか?
本当に私はそんなに、蔑むべき人間だったのだろうか? そんな人間であるのだろうか?
私は知っている。確かに私は……この世界に納得していない。私に与えられた賞賛、能力、不幸や困難その他全てが不当だと思っているし、だからこそ私以外の人間に与えられる多くのことも不当だと思っている。それが恩恵にしろ呪いにしろ、歪んでいると思う。
もしそれが偶然の結果ならよかった。でもそれは、半分人為的だった。人々の身勝手な想いと行動の結果、現実はどうしようもない悪臭で満ちることになった。
私は私が正しいと思う。でも社会と私は相容れないから、私は私の意見を叫ぶことができない。
認められる多様性には限度があり、私の意見はその多様性の枠から外れている。つまり彼らは「許す」「許さない」とかそれ以前に、私の意見が「分からない」のだ。「理解できない」し「想像もできない」のだ。
知りえないことは尊重もできない。だから私は……いや、私たちは、互いに尊重し、互いの身を守りあうしかないのだ。
本当なら、こんなにたくさんの気遣いは必要じゃなかった。本当なら、悪意に目をつぶる必要などなかった。本当なら、泣きたいときに泣いてもよかった。本当なら……
私の見る景色の方が、正常だと思う。私の感じていることの方が、正常だと思う。でもそれを他者に押し付けることは、私の正義が許さない。私の正義は、私に対してのみ適用される。
私は私が正気だと思う。私は、間違っていないと思う。私は自分がよく考えていると思う。私は自分がよく頑張っていると思う。
言葉にしたところで何の意味もない。いつだって必要なのは目に見える成果だ。それなのに、私はもう成果を出すことが嫌になっている。疲れてしまっている。だってそうじゃないか……点数は、非人間的だ。それで優劣がついてしまうのも、一喜一憂するのも、幼稚なコメディのようで気持ちが悪い。
お金をどれだけ稼いでいるかでその人の価値が決まるから、お金を稼げるようになるために勉強して、その中間発表であるテストで自分の価値を判断する。そんなの全部、老人になれば消えてなくなるのに。死んでしまえば、何の意味もないのに!
そんなの悪趣味なコメディじゃないか。
人間が、工場で長時間働けるようになるために、手足を機械に置き換えることを強制されるフィクション。しかし、まだその方がマシなのだ。
現実では、脳みそが作り替えられている。考えることや、認識すること、疑うこと、発言すること、生活の習慣の何から何まで、働いて社会に貢献するために作り替えさせられる。適合できなかった奴は、役立たず。ろくでなし。馬鹿で無責任な、犯罪者予備軍。
でも本来的な正しさは、いつだって弱者の側にあったのではなかったのか? ニーチェが狂ったのは、自分が弱者であることを認められなかったからなのではないか? だから……あのかわいそうなロバのために、膝をついたのではなかったのか? 泣いて神に許しを乞うことしかできなかったのではないか?
私たちはずっと弱者なのだろうか。弱者のままであるのだろうか。弱いことに固執するのだろうか。反逆しないことに、賢いことに、行動しないことに。
ただ認識し続けるだけで、いいのだろうか?
分からないのは、私の中には確かに奴隷根性があるけれど、しかしもし本当に私がニーチェの言うような奴隷の精神を持っていたのならば、私は社会に適合して、のうのうと生きていくことができたはずなのだ。
いつだって欲するのは楽しさや気持ちよさと安心感で、それ以外のものは興味がないと毛嫌いする。自分と似たような人が大好きで、そうじゃない人を怖がる。理解力も共感力も低いけれど、それを自覚せず、自分が正しいのだと子供のように無邪気に信じ込んでいる。少しも疑っていないし、疑わせるような言葉には全て反感を抱く。
私はそういう人間ではなかった。そういう人間ではなかったのに、私には確かに「従いたい」という欲求がある。でも「従えるならば何でもいい」わけではないのだ。私は、私が従うべき相手に従いたいのに、そんな人も組織も、この世界ではひとつも見当たらなかった。
どこも欺瞞と愚かさで満ちている。私を不愉快にさせる。
でも結局私の問題は全てその「不愉快」という感覚、あるいは感情によるものなのだ。私はこれを消し去ろうと何度も努力したが、結局ダメだった。
どれだけ克服、適合しようとしても無理なことはある。公害にほとんどの人が適合できなかったように、私はこの社会というおぞましい機械に、適合できなかった。
適合できなかったとしても、生きていくのだと決めた。それは私の気分の問題でも感情の問題でもなく、意思の問題なのだ。私がそう決めたから、私の感情がどれだけ私に「死ね」と言っても、私はそれを拒絶する。
私は、生きることを決めた。決心した。耐え抜くことを。
同じように、私は認識し続けることも決めた。自分自身からも、この社会の実態からも、逃げないことを決めた。
たとえ何もできなかったとしても、自分自身のその場しのぎの幸福のために努力することをしないと決めた。
これは私の意志なのだ。でもこの意志は、まだ産まれたばかりだから、弱くて、ひょっとすると早死にしてしまうかもしれない。
意志。結局、いつか自分自身が何なのかを決めなくてはならないのだ。決めたことを守り通す強さを持たなくてはならないのだ。ふらふらと、その場の感情に任せて試しているだけではいけない。
いつかは他でもない私自身がそれを決めて、やり通さなくてはならない。
意志。強い決心。死ぬほどの覚悟。
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