嫉妬についての考察②

これの続き

 さて今日も自分の中の嫉妬心に光を当てていこうと思う。
 少し前に本屋に行ってラ・ロシュフコーの箴言集を買ってきた。ちょうどいい言葉あったので、引用しよう。
「自負心にも他の情念と同じく支離滅裂なところがある。人は嫉妬していると告白することを恥とし、かつて嫉妬したとか、嫉妬するかもしれないと言うことは誇りにする」
 確かに彼の言う通りだと思う。そもそも私が今嫉妬について考察しようとしているのは、自負心によるところが多い。
 さらに私の自負心は、自分の心の内を見事にいい当てられると、それに反発したくなる。
 つまり私はここで「かつて嫉妬した」「これから嫉妬するかもしれない」ということではなくて「今私が嫉妬しているもの」のことを話そう。そしてそれを、恥ではなく誇りとしよう。
 それは自然に反したもののように思える。少なくとも、ロシュフコーの書いたことには反している。
 私は可能性を広げたいのだ。

 正直に言おう。私は私より注目されている人、評価されている人がみんな羨ましい。妬ましい。そう思っている。
 芸能人のことはよく知らないし、そもそも私の目に入らない人は嫉妬の対象にはならないから、私が嫉妬の対象とするのは、同じように文章を書いて人に読んでもらうことを趣味としている人。
 そして私は嫉妬を感じたくないし、その嫉妬を攻撃性に転じるのはもっと嫌だから、まずその対象の文章を読んで人柄を判断しようとする。
 もしその人の人柄が優れているならば、嫉妬よりも尊敬の気持ちがやってくるし、もし劣っているならば、軽蔑するのでどうでもよくなる。
 私の嫉妬はふつう長続きしない。ちゃんとその人のことを見れば見るほど、その不愉快な感情はどこか遠くに行ってしまう。

 私は自分の中の虚栄心を認めようと思う。もっと評価されていたいし、見られていたい。ただ、そのために何らかの小賢しい真似をするのは、私のプライド……いや、趣味に反している。何度か試しにやってみたこともあるが、結果がわかる前に吐き気がしてやめてしまった。
 自分の本性に反した努力を無理やりし続けるのは、やめた方がいい。少なくとも私はそう信じているし、そう決めている。誰がなんといおうと、やりたくないことはやらない。

 そう決めていると、いわゆる多くのものを持っている人や、不断の努力で何かを勝ち取った人への嫉妬心は和らぐ。もしその人が自分の好きなことをし続けてそうなったというのならば、その事例は私を喜ばせるし(間接的に私のしていることを肯定するわけだから)そうではなく自分の嫌なことをずっと我慢し続けてそうなり、今でもまだそれを続けているのだと思うと、私はそれが気の毒に思えてくる。
 たとえ全てがうまくいって、欲しいものが全て手に入ったとしても、自分のやりたくないことを我慢してやり続ける生活よりは、今のこの自由な生活の方がずっといい。それは私の感情も理性も、全てがそう言っている。

 こうして言葉を繋いでいくと、やはり私は嫉妬することがあまりない人間なのではないかと思う。

 しかし、本当に嫉妬心が弱い人ならば、このようにたくさんの言葉を用いて「自分は嫉妬しづらい人間なのだ」とわざわざ主張する必要がないのではないかと思う。
 私がこうやって自己弁護のような文章を書いてしまうのも、私の中に人並みに以上の嫉妬心がある証拠なのかもしれない。
「妬み心のない人よりも欲のない人の方がまだしも多い」
 とラ・ロシュフコーも言っている。

 もっと深く掘り下げていかなくちゃいけない。まだまだ私の考察は浅い。

 また明日に期待だな。

 


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