「考え方をアップデートする」の違和感

 最近本当によく目にする表現。
「価値観をアップデートする」
「生き方をアップデートする」
 言わんとしていることは非常にシンプルで、分かりやすい。つまり「変更する」ではなく「更新する」。
 真逆の方向にシフトするのではなく、元々あったものに上書きしていく。
 ころころ意見が変わる不安定さを肯定するのではなく、より多くのものを自分の中に取り込んでいこうという方針。
 何かを捨てるのではなく、新しく手に入れ、より複雑かつ効率的な自分自身に変えていく。

 言おうとしていることはよくわかる。耳に心地よく響くし、使いたくなる理由もよくわかる。

 しかし、私この言葉を聞くたびに疑問を抱く。
「じゃあそのアップデートの方針って何? どのように変わりたいと思ってるの?」と。
 もしその人が誠実な人なら、正直に「分かりません」と答えることだろう。あるいはすぐ「考えが足りませんでした」と頭を下げてしまうかもしれない。
 ともあれ、私はその「アップデートとやら」の具体性の低さと、その態度の軽薄さに吐き気を感じる。

 まるで何も考えていなくても、より多くの考え方に触れているだけで自動的によりよい自分になれる、というような言い方。それこそ盲目的、妄信的に聞こえてしまう。
 少なくとも私は「これから自分の価値観や生き方をアップデートしていきたいと思います!」なんて中身空っぽな言葉を使うことを私自身に対して許すことはできない。

 もっと具体的な目標と自己改革の方針を持っているならば「アップデート」などという言葉を使う必要はない。その目的のために自分を「改造」「開発」しなくてはならないのだから「更新」なんていう中途半端でふわふわした言葉を使う意味がないのだ。

 真面目に自分自身を見直し問題点を改善したいのならば、そもそもその「アップデート」という考え方を疑ってみてはどうだろうか。

 こういう「反アップデート」的な意見すら取り入れて「アップデートできる」と言えるのならば、私はそれを肯定したいけどね。

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