単純な欲望しか持たないことを野蛮と呼ぶ
単純な欲望と聞いて、何を思い浮かべるだろうか?
性的に満たされていない人なら「セックス」と即答するかもしれない。私もその口だ。
空腹な人は「食欲」と答えるだろうし、休みが足りないといつも嘆いている人は「休息、睡眠」と答えるだろう。
しかし人間はおかしな生き物で、その単純な欲望を増やしたりねじ曲げたり分化したりして、複雑なものに変えてしまう。
飢えは「美食」と呼ばれ、休息は「遊び」と呼ばれ、セックスは「恋」と呼ばれている。
これらはまだ確かに欲望の顔つきをしているが、ただ元々の単純な欲望より少しはマシな響きを持っている。野蛮な感じがしないからだ。
ただ食べたいときに食べ、休みたいところで休み、ヤりたいときにヤる。そういうのを、野蛮という。
だが食べるべきときに食べ、休むべきときに休み、ヤるべきときにヤる。そういうのを、文明と呼ぶわけではない。
美食も遊びも恋も、「べき」で動いているわけではなく、気まぐれと機会、趣味で動いているのである。
つまり「とき」ではなく「もの」に対して欲求しているのである。
食べたいものを食べ、休みたいところで休み、ヤりたい人とヤる。
複雑化した欲望は、多くの条件を求める。ただ単純な欲望を満たすだけでなく、自ら定めた趣味に対して忠実でありたいのだ。
そしてそういう趣味の高低を「品性」と人は呼ぶ。
よいものを食べることを欲し、よい休み方をすることを欲し、よい人と寝ることを欲する。
それが品性であり、文明である。
そしてこの「よさ」は時代と地域によって変わってくるが、そもそもその「よい、わるい」がない人は、どのような時代や地域においても軽蔑されてきた。
残念なことに、この時代はその「よい、わるい」を持っていない人があまりにも多い。
どんなものでも食べ、どんな場所でも休み、どんな人とでも寝る。そんな人があまりにも多い。
言い方を変えよう。
気持ちよくなれるものを食べ、気持ちよくなれる場所で休み、気持ちよくなれる人と寝る。そんな人があまりにも多い。
まさに野蛮だ。そういう人に同調しないようにしよう。
私たちには私たちの趣味があり、私たちなりの複雑化した欲望がある。
極度に複雑化した欲望というのは、原型をととどめておらず、もはや欲望として認識されることも少ない。
平和を祈る気持ち。人々のために尽力したいと思う気持ち。人類の進歩に貢献したいという気持ち。これも私たちの欲望であることに違いはないのだ。
私たちはこの先も欲望をさらに複雑化させなくてはならない。それこそが欲望の進歩、人類の進歩である。
簡単に理解されない欲望を持とう。満たすことが難しい欲望を持とう。
それこそがこの地球上でもっとも複雑な生物に相応しい生き方なのだと私は信じている。
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