無理して何かをやり遂げることについて


 私は今まで生きてきて、強い精神の抵抗を感じながらも我慢しながら続けたことがいくつかある。
・高校の受験勉強
・広く良好な友人関係
・長編小説の執筆

 高校受験はうまくいったし、人間関係の方は、何をもってうまくいくというのは難しいが……まぁ、当時の自分自身としては満足していた。
 長編小説の方は、何度やってもダメだった。出来上がった作品は「まぁまぁ面白いけど、それだけ」な作品ばかり。一本、自分の中で特別な作品はあるけれど、特別過ぎて完成させることができなかった。

 「嫌だけど、自らに義務を課してやり遂げること」を努力と呼ぶ人は多いと思う。もしそれが本当に努力と呼べるなら、私は多分かなりの努力家だと思う。
 でも私の努力とその結果を、私は受け止めることができない。高校にはほとんど通ってないし、友人関係は気分が悪いのでほとんど断ち切った。長編小説は、何かない限りはもう書かないと決めた。体調を崩すから。

 私はそういう努力ができる人間だが、やらない。努力が嫌いなのだ。出た結果が、どうやったって釣り合わないのだ。
 おそらく、私が書いた長編小説を誰かが高く評価して、作家になれたとしても、私はあの程度の作品を書くことを生業にするのをよしとすることができない。たとえ人から求められても、あぁいう「存在していてもいなくてもどちらでもいい作品」を産み出し続けるために必死になるのは、自分自身に許せない。

 私は、自分にとってどうでもいい目標のために頑張るということを、二度としないと決めた。そんなことをすれば、自分の肉体から復讐される。自分ができるはずだったことも、できなくなってしまう。
 少なくとも、私の肉体は私という精神にはっきりとそう告げているし、私はそれに従うことに決めた。


 そう決めつつも、私はなぜか自分が「いやだな」と思ったことになぜか挑戦しようとする。きっと「完璧な存在になりたい」という馬鹿げた欲求がまだ残っているのだと思う。自分が苦手だと思うことに触れて、つらい思いをしつつも成長することを、望んでいる自分もいるのだ。

 私は新聞なんて大嫌いだけど、時々なぜかそれを手に取って読み始める。気分が悪くなって、読むのをやめる。

 私は根っから自分に厳しいタイプの人間なのかもしれない。自分の感情に真っ向から立ち向かっていくタイプの人間なのかもしれない。

 なればこそ、私は意識して自分を甘やかさねばならない。知らず知らずのうちに自分自身を虐待してしまわぬように、しっかり自分を制御しなくてはならない。

 無理はするな。肉体の声を聞け。ストレスの強さを意識せよ。


 そういえば、私は最近までストレスとは何か全く理解できなかった。動悸が止まらなかったり、胃が痛くなったり、何日も下痢が止まらないのは割と日常的だったし、皆そんなもんだと思ってた。
 だからかインフルエンザや風邪に罹ったときも別につらいとは思わなくて、なぜ病気になると周りの人間が自分に優しくなるのか理解できなかった。同じように、病気になった友達に優しくしなくてはならない理由も分からなかった。
 元々極度に精神が強いタイプの人間だったのかもしれない。でも蓄積された疲労や感情は、ある日一気に復讐となって私の体に襲い掛かってきた。雨が石を穿つようなものだと思う。あるいは、ダムが決壊するようなもの、か。

 ともあれ私はそれ以来、真逆の人間になった。絶対に頑張らないと決めて生きる人間になった。同時に、絶対に頑張らないと決めていても、いつの間にか目標を定めて取り組んでしまう類の人間であることにも気づいた。

 時間があっという間に過ぎていくという感覚を、私はまだ知らない。私は自分の人生はあまりにも長すぎてうんざりするくらいだと思っている。時々自分の若さに驚きを覚えるくらいだ。もう終わりかけていても不思議じゃないと思う。

 本当に、最近のことだ。皆がそんなに思いつめて生きているわけじゃないということに気づいたのは。
 自分の人生のことを真剣に考えている人は滅多にいないということに気づいたのは。

 生まれてからずっと、孤独に苛まれてきたけれど、それは皆感じていることだと無邪気に信じ込んでいた。実際にはそうじゃない。それにも、最近気がついた。

 今は、ゆっくり生きていたい。今まで、気を張り過ぎていたような気もする。もし前世というものがあるなら、私はきっと人間というものに憧れ続けていた何かだったのかもしれない。だから、過剰に人間らしさを追い求め、意味不明になったのかもしれない。まぁ、いいじゃないか。そんな冗談は。

 頑張るのはもういやだ。誰かと競争するのも、少ない席を取り合うのも、もううんざりだ。優れた作品を書こうとするのも、人が喜びそうな記事を書こうとするのも、もううんざりだ。

 何も考えずに生きていたい。ううん、違う。自分の考えたいことだけ考えて生きていたい。それでもきっと私は、色々なことを考えずにいられないだろうから……
 私は無責任さが欲しい。自分自身に対する無責任さが欲しい。

 でも、投げ出したいとは思えないんだ。色んな重荷はもうすでに投げ捨てた。でも自分の苦しみや悩みまで投げ捨てる気にはなれない。

 幸せそうな顔をした女性啓発者は「苦しみや悲しみを大事そうに抱えて生きるのはやめましょう」なんて嬉しそうに教えてくる。私はあいつらが大嫌いだ。覚えておくべきことはあるし、抱え込むべきこともある。私は自殺を悪いことだとは思わない。悲しみも、苦しみも、悪いものだとは思わない。人間に必要なものだ。
 悩みも、努力の苦痛も、やっぱり私は好きなんだと思う。

 肯定と否定のはざまで私は立ち止まっている。いいんだ、それで。決める必要もない。私は、その時々で自分の望む自分でいたいだけ。私は自分が頑張りたいときは頑張るし、頑張りたくないときは頑張らない。

 今日は何かをしたい。難しいことをしたい。でも絵は描きたくないし、物語は何も浮かばない。音楽は……まぁ、そうだね。作曲でもやるかなぁ。ありきたりなものしかできないのは知ってるけど、やりたいと思った時にやるのが大事なんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?