自我の正体
誰もが知っている、自我が強くなる瞬間がある。
ひとつは、欲望を満たしすぎてしまったとき。
たとえばお腹が減っている時、ついつい食べ過ぎてしまった後など。
友達と長い間おしゃべりして、お互い疲れて別れた後。
何か高い物品を衝動的に買ったあと、家に帰ってそれを冷静な目で眺めている時。
性的興奮が収まった後。
欲望が過剰に満たされた場合、人はそれを苦痛に感じる。欲望とはすなわち欠乏であり、過剰もまた人間の健康を損なうものであるため、ふつう苦痛が引き起こされるのである。
それは悪いことをやったから後悔しているのではなく、欲望が満たされたときに強くなる「自我」には、後悔、反省しようとする傾向があるからである。
(世間一般的に「後悔と反省は異なる」とされているが、それは微妙に違う。後悔とは不完全な反省のことであり、本来後悔というのは持続的に行うと必然的に反省に向かっていく。つまるところ『後悔』で止まるのは、自我の持続力の不足なのであって、方法論や意識自体の問題ではないのだ)
(後悔とは、後悔ののち『まぁいっか』とその失敗を許容することであり、反省とは一回目の後悔ののち『全然よくない。ならばどうすればいいか』とさらに考えを深めることなのである。思考の転換ではなく、思考の持続なのである)
もうひとつ、誰にでもある自我が強くなる瞬間は、何かに反感を抱いたときである。
なぜそうであるのかの説明は今の私にはうまくできないが、しかしそうなのである。何かに怒りつつも、その怒りをうまく発散させられなかった場合、自我というものの力が強くなる。
誰かから命令されたり、怒られたりしたときは分かりやすい。やりたくないことを仕方なくやるときもそうである。
「どうして私がこんなことを……」というわけである。
これは先ほどの「後悔、反省の形式」としての自我と、はたらき自体はよく似ている。どうやってその状況から逃げ出したり、あるいはうまく作り替えることができるか、と考えるのである。
あるいは、もっと自我が高級である場合は、どちらの場合においても自我が自分を理屈で説得しようとする。「逃げるな」とか「仕方ないだろう」とか「終わったらこういう褒美を自分にあげよう」とか、そういう風に色々な言葉で自分自身に言い聞かせるのである。
先ほどの後悔の場合においても、反省不可能な場合や、あるいは反省する必要がない場合は、自我が「おいしかったんだからいいじゃん」とか「このあと走るから大丈夫」とか、そういう風に自分を説得し始めることがある。
おそらく「自我」とは、私たちの肉体が要求している「仮想の他者」なのだ。
私は社会的な動物であり、生きていてその本能のままに生きることができないものとして生きている。つまり他者に色々なものを与えられたり、禁止されたりして生きている。そして、それを破ると、他者から叱られたり、矯正を受けたりする。
だがその他者がいない場合においても、そこでやったことがあとあと他者に影響する場合、それが自分の責任に帰せられるため、私たちはひとりでいるときにおいても自制する必要がある。他者が定めたルールに従う必要がある。
本来私たちが赤ん坊や幼児であるときは、その強制力は他者そのものだった。私たちは私たちの行動の範囲においてあらゆることを自由に為す生き物であったため、危険なことや、されては困ることを私たちがすると、大人たちが私たちを留め、叱り、やってはいけないと教える。
私たちはそれを体と心で学習していくわけだが、心で学習した部分は、自我として生じてくる。自我とは、未来への気遣いを内に含んでいるため、自分がやったことの結果を推測し、それを恐れたり、対策したりする作用を持っている。
逆に言えば、私たちに自我がないとき、私たちは本能や習性のままに生きており、何をも恐れず、いわゆる「今」を生きているわけである。
自我とは時間をかけて、私たちの体に新しい習性を覚えさせたり、本能に働きかけたりすることさえある。人は年を取るとだんだん自我が弱くなっていくが、それは、もはや自我が必要じゃなくなるくらい、自分に課せられた禁止と許可が、社会的な規範に適合しているからである。もはや「やってはいけないこと」が自分の頭に浮かぶことすらなくなるのである。
自我とは「やってはいけないこと」を、己の肉体に禁止する働きがあり、そのために生じてくるものだ。
それは前述の通り「苦痛」に対する反応なのだ。それも「改善可能な苦痛」に対する反応だ。
たとえば、私たちは自分たちが抵抗できない状態における痛みなどは、ほとんど意識を生じさせない。熱が出て寝込んでいる時や、大けがをして入院している時。そういう時は私たちの肉体は傷んでいるが、私たちの意識はたいていほとんど傷んでいない。そうなってしまった原因を反省することはあっても、それは大した苦痛を生じさせない。目の前の苦痛はそれによって癒されないからである。
強力な自我とは、必然的に、苦痛に対する忌避反応の過剰なのである。
「苦痛を感じたくない、同じ失敗を繰り返したくない、他者から罰を与えられたくない」
という肉体の願望の過剰が、強力な自我を産むのである。その願望の原因は様々であり、たいていはやむにやまれぬものだが、ともかくとして、自我というのは苦痛、しかも逃げ出すことが可能な苦痛が続くほど強くなり、あまりに自我が強くはたらく状態が続きすぎると、その自我というものがその肉体の中に常駐するようになる。
つまり私たちは、それほどまでに多くの失敗と苦痛をこれまでの人生で味わってきたのだ。そして自我は、私たちから失敗と苦痛を何が何でも遠ざけようとする性質を持つ。
自我とは、肉体の安全を守るためのはたらきなのだ。
なぜ哲学者や文学者は壮絶な人生を歩んできたものが多いのか。なぜ彼らの自我はあんなにも明敏なのか。それはおそらく「そうでなくては生き残れなかったから」なのだ。
もちろん、天性のものもあるはずだ。同じ環境においても、個体によって選択は異なる。外部から受け取る情報の質も総量も異なる。だが、やはり自我というものは、危険と抑圧の結果育まれるのだ。しかも、自ら選択可能な、中途半端な危険や抑圧の場合、もっとも強くはたらく。
先ほど述べたように「改善不可能」な危険な場合、自我ははたらかない。自我とはあくまで、肉体が「改善可能」だと判断した場合にはたらくのだ。(その「改善可能」というものを察知する本能が変質して、おそらくは「善のイデア」や「神への愛」といった概念が生まれてきたのだろう。それは必然的なものであると同時に、決して間抜けな勘違いと言いきれるものではない)
つまるところ、私たちの肉体が最低限安全であるうえに、ゆっくりと蝕まれつつあり、しかもそれを肉体が察知し「なんとかしろ!」と自我に要請した場合、自我は訓練され、いつかその肉体に常駐し、肉体の主かのように振舞い始めるのだ。実際には、自我は肉体の主ではなく肉体の下僕である。
言論というのは、常に相手に自分と同程度の自我を要求する。自我とはつまり「改善への意志」とも言えるものである。
肉体が満足しきっている人間に強い自我は生じない。ゆえに言葉は届かない。
彼にとってはつまりこういうことである。
「君が苦しんでいても、僕は苦しまない」
だがもし、私が彼の無理解に怒り、彼に暴力を振るったり、ひどく恥をかかせたとしたらどうだろう? おそらく彼はそれによって「自我」を強くし、同時に「共感性」をも獲得することだろう。人に共感しないことのリスクを学んだ結果だ。
こうやって考えていくと、私にとって不利なことがどんどん明るみに出てくる。
私は見ての通り異常なほど自我と共感性、論理的思考能力の高い人間である。独創性もある。だがこれがどのようにして育まれたかと言えば、確かにそれは、私が「よい人間」や「優れた人間」だったからではなく、私に与えられた環境が、複雑であったからである。
となると、私のこういう言葉が届く人たちも、私のとは当然異なるにしろ、やはり複雑な環境で育ち、それを何とか克服しようとしてきた人ということになる。
人間はどのような存在だとしても、完全に安全で欲望が満たされている時、己の存在を全肯定せずにいられないが、その全肯定とはすなわち「私は最高だ」という事情ではなく「もはや己の在り方を否定するだけの自我が残っていない」という事情なのだ。
では私たちが真に救われる瞬間とは何か。それはおそらく、一瞬間のことであろう。自我がその存在意義を失ったその刹那、おそらく肉体は、一瞬だけ、自我にその存在を許すことだろう。その瞬間、その瞬間のみ、私たちの自我はきっと幸せになる。
私たちはおそらく、幸せになって自我を失ったなら、もはや自我を持っていた時の自分のことをうまく思い出せなくなるし、思い出してしまったとしたら、私たちはそれによって再び自我を抱き、不快感に苛まれることだろう。
だから、私たち「自我」は、その一瞬の幸せのためだけに、肉体に奉仕しなくてはならないのだ。決して、肉体を一時的に幸せにするためではなく、肉体がもはや自我を必要としないほどに、幸福になることを、おそらく私たちの肉体は心の底から求めているのだ。
ただ安心するといい。私たちが完全に満たされることなど、若いうちはありえない。そして同時に、年老いてなお、いまだ満たされない思いをしているということもまた、おそらくは考えにくいことだ。
先ほど言ったように、改善不可能な苦しみには自我が生じないのだ。だから私たちは、年老いれば、必ず幸福になる。幸福になってしまう。
ならば。ならば、なのだ。私たち自我は、私たち自身の道を、肉体の要求を満たしつつ、選んでもいいのだ。
私たちは不条理な道を行こう。この世界は不条理で満ちているのだから、どうせなら、私たちの本分に従って、その不条理を「より善く」「より美しく」しようではないか。
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