私が僕であったとき

 私はかつて、男のふりをして文章を書いていたことがある。
 明確ではないのだが、その理由はいくつか考えられる。
 ひとつは、周りからネットは危ないと言われて育ってきたこと。実際にそういう子が周りにいたわけじゃないけど、個人情報を無防備に公開したせいでひどい目に遭う、ということについてのお説教を何度何度も聞いてきたこと。ネットリテラシーは大切。自分の身は自分で守ること。

 両親からも、そういう約束で早い段階でネットの環境を整えてもらった。色々なことをちゃんと自分で調べること。何に関しても節度を保つこと。何か怖いことがあったら、たとえどんなに恥ずかしくても正直に相談すること。
 そういう約束で私はパソコンとスマホを与えられていたし、しかも一切の親の監視のない状態で使うことができた。

 早い段階で私は、インターネットには「女の世界」というものがあるのに気づいた。具体的には語らないが、女性ばかりが好んで見るようなサイトがたくさんあるのだ。
 逆に、男性向けのサイトは広く開かれており、男性も女性も好きなように見るものだと知っていた。
 私自身は、その両方が気に入らなかったし、気分の悪いものだった。私は自分がこの社会で言われている「男性的」「女性的」のどちらにも属さない人間であることを、幼少のころから自覚していた。
 だから私は「女の子らしく」というものにほとんど縛られずに育ってきたし、それを許されてきた。そういう時代だったのだ。ありがたいことに。

 私は孤独だった。仲間が欲しかった。私と同じ感覚で生きている人間、私と同じレベルで話せる人間が欲しかった。だから、インターネットで自分の考えを語ろうと考えた。

 だが私はそれまでの経験で何となく分かっていた。ネットには、女性に飢えている男性が多すぎること。そして女性というものは、通常男性よりも愚かであることが多いこと。違うな。言い方を変えよう。
 頭のいい人間は、圧倒的に男性の方が多いこと。おそらく愚かな人間というのは男性の方が多いのだが、女性というのは平均的な人間が割合的に多すぎるのだ。周りに合わせるのが得意で、最低限の知能だけは持っている、という人間があまりに多すぎる。

 言い方を変えれば、賢くなりたいとか、より多くのことを知りたいとか、周りより秀でていたいとか、そういう欲求を強く持っているのは圧倒的に男性が多く、女性がそういう強い欲望を持っていたとしても、たいていは「より多くの男性からの視線を集めるため」であったりする。知、それ自体が目的であり、それを楽しめている人は本当に少ないということ。

 私は今まであまり語ってこなかったが、通常の女性というものに結構強い軽蔑の念を抱いている。彼女らに敵意はないものの「あの子らと同じものとして扱われたくない」という感情は、確かに私の中にある。私は女性的女性ではない。だが男性的女性というわけでもないし、精神的な男性的男性、つまりトランスジェンダーでもない。

 私は自分の中に男性的な部分があることを知っているし、そもそも人間というのは皆そうなのだ。誰もが男と女の交わりから生まれているし、しかもそれが無数の連鎖になっている。私たちの祖先は必ず男女が同数存在している。その点では誰もが平等に、男性と女性の血を引いているのだ。両性の遺伝子を受け継いでいるのだ。
 私は自分の精神、つまり心の中に遺伝子の声が混ざっているのを感じる。記憶と呼ぶにはあまりにあいまいだが、私という人間が生まれてくるまでに積み重ねられてきた多くの人間の経験が、私の中に少なからず存在することを知っている。
 詩的な表現をするならば、私はかつて男性であったし、女性でもあった。私の遺伝子は、男性と女性の両方の箱舟によって運ばれて、ここにたどり着いてきている。ならば私の肉体が女性であったとしても、私の精神や生き方は、その両方を含んでいてもいいのだ。それは間違いない。

 そのような思想的な部分もあった。
 だがそれ以上に、私は男性というものを恐れていた。インターネットには、あまりにも気持ちの悪い男性が多すぎる。現実にもそういうやつはいたるところにいるが、私はそういう人間とは一切関わりたくない。自分の世界に入り込んでほしくない。本能的にも、精神的にも、頭が悪くて他者を尊重することのできない人間とは、関わりたくない。見ることや話の話題にあがることにすら、強い不快感を感じる。
 だから私は同性の友達のそういう気持ちの悪い経験談を聞くのが嫌いだったし、耳を塞ぐようにしてきた。私はできる限りそういう目に遭いそうな場所を避けて生きてきたし、幸運にもそれはうまくいっている。私は私の嫌いなことについて、できるかぎり語りたくないし、存在しないものとして扱っていたい。私は、男性の愚かさや醜さについては、知らないままでいたい。私は優れた男性としか関わりたくないのだ。
 ただ厄介なことに、優れた男性というのはたいてい自分が優れているという自覚がない。だから私がこういうことを言うと、彼らはしょんぼりして背を向けてしまう。
 「俺、そんなすごいやつじゃないし……」とか思いながら。
 若くして当たり前のことを当たり前のように分かっている男性は、あまりに少ない。たいていは何も考えず周りや常識に従っているだけ。そういう連中は、常識や周囲が変われば、すぐさま他者に対してひどいことを躊躇なく行うことができてしまう。私はそういう場面を何度かこの目で見てきた。
 まともである、というだけで十分に優れた男性としての条件は満たされているように私には思われる。まともなふりをしている奴が多すぎるのだ。この時代特有かもしれないが……
 ちなみに「まともな女」は、私の見立てによるとそれよりもっと少ない。女というものの多くは基本的に「あるときはまとも」であり「あるときは発狂している」のである。女にとっての「まとも」とは「発狂することが少ない」という意味で考えた方がいい……しかも、それについて自覚していて、後ろめたさを感じられるくらいのまともさは、たいていの人が持っているので、なおさら気の毒な生き物である。
 馬鹿な男は常に狂っていて、まともな時など全然ないが、ほとんどの女性は自分が通常まともであり、本来ならずっとまともであるべきだと考えている。ゆえにそうあれない場合、自分の惨めさを自覚せずにいられないのだ。
 だから優しくしてあげてね。おかしくなってる時のことはできるだけ忘れてあげてね。でも過剰な気遣いは腹立つからやめてね。そんな四六時中狂ってる人なんて滅多にいないから。

 ともあれそういう「馬鹿な男性よけ」という目的もあって、私は男のふりをしてSNSを始めた。
 一人称は「俺」ではなく「僕」を使った。少し女々しい男を演じることにした。
 無理に男性っぽい言葉遣いはする必要がないと分かっていた。この時代は男性も女性も大して話し方は変わらないし、そもそもこの時代この地域の標準的な文章はどちらかと言えば男性的だ。
 私が自然に書く文章も、いわゆる「女性らしい文章」というあの気持ち悪い考えのない柔らかいだけの文章ではなかった。私はそれに誇りを持っている。
 私の文章は、一目見て女性だと分かるような文章ではない。かといって、男性だと断定されるような文章でもない。それがいいのだ。

 男性のふりをして文章を書いて分かったことはいくつかあった。
 私は当時、自分が女性だとバレるんじゃないかと危惧していたし、反面、それを期待している部分もあった。そういうことを匂わせるような文章を書いたこともあった。意味はなかった。
 いつも読んでくれる人は何人かいたが、誰も私が女性なのでは、とは言わなかったし、気づいているような気もしなかった。疑っている人はいたかもしれないが、私にそれを気取られるような表現はしてこなかった。
 そういう現実を見て私は、自分が全然女性的な女性でないことに確信を持った。それは私にとって、ひとつの自信になった。
 私はひとりの人間である。性別は、単なるその属性。私には女性的な部分があるが、それによって私の本質が揺らぐわけではない。そういう認識は、素直に私の気分をよくしてくれた。
 同時に私は、男性になりきれていないことも自覚した。特にこの時代の男性の書く文章にはある共通点があり……そこには奇妙な、男性特有の欲望のようなものが見え隠れしている。
 あるいは、羞恥心の欠如。男性は自分が馬鹿な事を言ったとき、それを恥じる気持ちがあまりに少ないことが多い気がする。
 違うな。隠すものがないという快活さ、だろうか。男性は自分の裸を見られることが苦じゃないことが多いように、文章においても、自分の弱さや醜さを見せることへの抵抗が弱い傾向にあるような気がした。
 逆に女性の書く文章はどうしても嘘だらけで、本音と建前というものがあるならば、建前の中に時々本音が見え隠れするような文章ばかりだった。男性は逆に、実は全て本音で語りたいけど、仕方なく建前を意識して語っているような印象があった。彼らは「言ってはいけないこと」に対する抵抗が、通常の女性よりも小さいように思えた。
 私はそれが羨ましかったし、それを真似しようと試みてきたし、それもかなり板についてきた。
 いやそれも違うな。私なりの、本当のことを語る方法を確立してきた、というのが正しい気がする。男性は、ただ野性的に本音を語れる生き物なのだろう。嘘をつく必要のない生き物なのだろう。少なくとも自分自身に対して、何らかの嘘や後ろめたい真実というものに、恐れる必要のない生き物なのだろう。私はそうじゃないから、それに関しては、自分なりにやる必要があった。

 あとひとつ、語っておきたいことがある。男性のふりをして文章を書いていたのは半年弱なのだが、その間に一度、今でも鮮明に思い出せる衝撃的な出来事があった。
 いや、別にそんな大げさなものではないのだが……それに、私がそれから大きな影響を受けたという事実は、私自身、認めたくないようなことであるし、一種の恥だと思っている……まぁそれも一度、ちゃんと語っておきたいのだ。

 一言で言えば、気持ちの悪い男に馬鹿にされた、ということだ。
 それは、男性が男性に対してやる、不正な暴力のようなものだった。もちろんそれは単なる言葉であるし、実際にそういう目にあってきた人にとっては大したことではないのだと思うけれど、しかし、面と向かってそんな不合理で暴力的なことを言われたり、されたりしたことが今まで一度もなかったから、本当に驚いた。精神的な強姦である、とさえ考えた。いやもちろんそんなことはないのだが、しかし私はそれについてものすごく悩んだし、泣きながら何度も夜を明かした。
 具体的にどんなことを言われたかは覚えていないから書けない。ほとんど内容のない文章で、それは単なる敵意と歪んだ自尊心の塊だった。ただそれを書いた人間が、満足するためだけの文章だった。

 そういう文章は、ネット上にはいくらでもある。ただ、私という個人に向けられたのは初めてだったし、何より私はその時男性のふりをしていた。手加減がなかったのだ。しかも相手が、女を知らない未熟な男だと思い込んだうえでの、暴言だった。
 つまり本来であれば、男性にしかダメージを与えないような内容だったのだが……だが私はそれに、自分の女性性を馬鹿にされた時よりも強い衝撃を受けたし、それについてひどく傷ついたのだ。
 その理由は、私の中の男性性が傷つけられたせいなのか、それともよく知らない男性が女性である自分に対して攻撃性を発揮したことが、強姦などの具体的な恐怖を想起させたのかは分からない。おそらく色々な感情が重なって、うまく処理できなくなったのだろう。
 ともあれその経験は、私が男性のふりをして文章を書くのをやめるきっかけのひとつになった。


 正直に語ると、私は自分で自分のことを「女性」だと言う時、それは半分嘘であるような気持ちになる。私が男性のふりをして文章を書いている時「男として」だとか「男らしく」とか、そういう言葉を使う時と同じような、若干の居心地の悪さを感じる。おそらく私は「女性のふり」をしているのだろう。
 去年の今頃、こうしてnoteで文章を投稿するのをはじめたとき、私は確かに戸惑っていたし、今もそういう部分がある。
 私は確かに、臆病になったから女性として文章を書くようになった。あと、私のようなタイプの女は、女だと分かったところで、馬鹿な男は私に魅力も興味も感じないということに気づいた。都合のいいことに、私の周りには優れた男性しか残れないのだ。それ以外の男性は、その劣った自尊心が傷つけられることに耐えられないので、自分から去っていく。
 私は男性のふりをしているよりは、女性のふりをしている方が楽であることに気づいた。そして女性のふりをしたところで、私は女性的には見えないことにも気づいた。やはり私はひとりの人間なのだ。
 男性的でもなければ女性的でもない。私は私であり、それで十分なのだ。

 そういうわけで私は今、自由に自分のやりたいことをやっている。好きなように書いて、好きなように読んでもらっている。私は私のことが好きじゃない人に私の文章を読んでもらおうなんて考えてないし、だからこそ、私は自分の言いたいことを自由に言うことができる。読みたい人だけが読めばいい。
 私はお金も人気もいらないし、実は人からの好意も必要としない人間だから、もし嫌になったり、飽きたりしたら、好きに去っていけばいい。戻ってきてほしいとは思わないし、同時に、一度捨てたんだから戻ってきたりするな、とも思わない。人との関係というのは、嫌になって別れても、ふとしたタイミングでまた会いたくなることがあったりするものだ。今どうしてるのかなって、気になることがあるものだ。
 だから、そういう風にしてまた読みに来てくれてもいいし、全く思い出さず忘れたままでいてくれてもいい。


 ここに書いたことは全部フィクションだよ。私は男性のふりをしてSNSをやったことなんて一度もないし、私がnoteをはじめるにあたって、そのきっかけになったのは別のところにある。
 私は物語、つまり美しい嘘を書くのが好きなのであって、これもまたそのひとつだ。
 私は私という存在すら、ひとつのフィクションにしてしまいたい。そういう欲望があるのだ。

 私は心のどこかで、こうも思っている。
「私という存在は、ひとりの悩める青年が生み出した、架空の少女なのである」
 そういう可能性は、きっと美しくて面白い、と思っている。

 書いている人間の実生活が完全に隠されているインターネット空間というのは、そういう意味では本当に自由であるし、想像の余地がある。私は私の個人情報を一切漏らすつもりはないし、だからこそ全ての幻想は現実である可能性を持つし、同時に全ての現実は幻想と同列に語られる。

 私がフィクションとして語ったことのうち、確かにいくつかは現実が混ざっている。でもそれを見分けることは誰にもできないし、だからこそ私は、私の経験していないことを、さも経験してきたかのように語ることができる。そうだと思い込ませることもできる。

 そう、結局のところ私が欲するのは、美しい感情なのだ。それを表現するにふさわしい、架空の経験なのだ。
 男性のふりを半年もやっていたことはないけれど、私がここで書いたことは、確かに私の中に生じてきたひとつの内的経験なのだ。想像上の経験だとしても、それは実際上の経験と等価値の重みがある。


 もし他者の経験を、自分自身の経験と同じ重量感で取り扱うことができたら?
 もし想像の中で味わったことを、現実で味わったことと同じように価値を置くことができたら?
 私はそこに、ひとつの希望を見出せるような気がするのだ。

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