甘えん坊④

 人間関係というのはいつも微妙なもので、くだらないラブコメディみたいに、四六時中互いに発情し合っているわけではない。
 好きだと思うときもあれば、なんだかどうでもいいような気持ちになっている時もある。恋愛ゲームみたいに、好感度が変動するのは行動によってのみで、その内部で設定された好感度通りに人が動く、というようなことは一切ない。
 人間の心は不安定なもので、嫌いだったはずの人がいつの間にか好きになっていたり、逆に好きならないとおかしいくらい色々なことをしてもらって、その人も自分に好意を抱いてくれているにもかかわらず、どうしても好きになれないこともある。

 もし神様というものがいて、それが俺たちの感情というものを操作して恋愛劇を楽しんでいるのだとしたら、この神様はずいぶん気分屋だ。その日の気分で、積み上げてきたものを一気壊してしまうようなことをしたと思いきや、壊れてしまったはずのものが、まるでその事実がなかったことかのように元通りになっていることもある。

 ネットサーフィンしていると、最新の海洋生物学の研究で、魚にも恋愛の駆け引きのようなものがあるらしいことが実証されたとの記事があった。簡潔にまとめられてはいたが、論文自体を確かめたわけではないので、それが絶対的に正しいことであるとは言いきれないものも、動物にも異性の好みが個体ごとに異なっているのは日常的な感覚からして正しいので、ある種の魚にもそういう部分があっても何ら不思議ではないように思われた。
 そこからさらに色々な学術関連の記事を見ていくと、魚も恋人を失った影響で塞ぎ込むことがあるだとか、魚類の半数以上が音声によるコミュニケーション能力を有しているだとか、色々と興味深い研究が世界中で盛んに行われているようだった。
 政治や経済のニュースを見ていると気分が悪くなってくるが、こういう自然に関連した新しい情報に触れていると、温かい気持ちになってくる。
 この世界は、人間だけのものではない。そう思うと、人間との関係で疲れた心が少しだけ癒されるような気がするのだ。

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 ふと思い立って家を出て、ふたつ隣の家の犬の様子を見に行った。その老いた犬は玄関に寝そべっていて、目が合うと、あくびをしながら近寄ってきた。まるでそれが自分に課せられた役割であるかのように。

「お前は俺のこと、覚えてるのか?」
 しゃがみこんで、小声で、犬にそう尋ねてみる。犬は何の反応も示さない。撫でてやると、気持ちよさそうに喉を鳴らした。
 こうするのは多分、二年ぶりぐらいだと思う。高校生になってから、この家の犬を撫でることはなくなった。
 リードのついていない、よくしつけられた……というより、もはや動く元気もないような犬だった。二年前からずっとそうだったけれど、栄養状態はよいらしく、少し毛が乾燥しているが、変なにおいもしないし、老いている割に肉付きは悪くなかった。
 この家に住んでいる二つ下の男の子と昔仲がよくて、小学生の時とかは、この犬の散歩を一緒にしていたこともある。その子は犬の名前を呼ぶのが照れくさかったのか、いつもこの犬のことを「そいつ」と呼んでいた。名前は教えてもらっていたはずだが、思い出せなかった。
「あとは死を待つだけ、か」
 そんなことを言いつつ、あと五年も十年もこの犬が生きたら、俺は間抜けかもしれない。そもそも、こういう愛玩用の犬の生に……死を待つ以外、どんな意味があるのだろう? こうやって、近所の人間に、撫でられることだけが、この犬の生なのだろうか? そんな悲しいことはないだろう。でも今更、こんなにぼんやりしていて、新しい犬と出会ったり……いや、そもそもこの犬は去勢されていたな。
「桐沢さん」
 後ろから、かすれた声が聞こえた。声変わりしたての男の声だった。
「あぁ。宮田君。ちょっと、癒されてた」
「そいつで癒されたりするんすかね」
 受験期で忙しいのだろうか、少年の目の下には少しくまがあった。
「目の下の、大丈夫?」
「あーこれ。最近あんま寝れてなくて」
「受験?」
「いや、最近ハマってるゲームがあって、つい夜更かししちゃうんすよね」
 呆れたような表情をしそうになって、慌ててこらえた。説教くさい年上の幼馴染なんて、邪魔でしかないだろう……
「桐沢さんは、いい高校行ってましたよね。やっぱ、ちゃんと勉強しといた方がいいとか思います?」
「いや、俺は……」
 それほど受験に力を入れていたわけではなかった。毎日勉強する習慣がついていたから、少し時間を増やしたくらいのもので、それだけで十分通える範囲で一番いいところに合格することができた。でもそれを正直に言えば、きっと嫌味にしか聞こえないだろう。
「ちゃんと勉強っていうのがどうかは分からんけど、何事も健康は大切だと思う」
 一番つまらないことを言ってしまってうんざりした。
「まぁ、勉強のしすぎで体壊しちゃ元も子もないですもんね。あ、ゲームもか」
 若いうちは多少無理が聞く、という言葉が思い浮かんだが、それはきっと、他の誰かが他の誰かに言っているのを俺が聞いたことのある言葉であって、俺自身の言葉ではない。結局、何を言えばいいか、全然分からない。分からなくなってしまった。
 犬が、じっと俺の顔を見上げていた。
「それにしても、桐沢さん、カノジョとかできました?」
 カノジョ。彼が口にすると、なぜか特別な響きを持ったような気がした。
「いや」
「なんでですか?」
「え?」
「いや、桐沢さんって、女の子と一緒にいること多かったじゃないですか」
「いやそれは、たまたまタイミングが一緒だっただけで……」
「俺、中学に入ってから、なんか妙にモテるようになったんすよね。で、思ったんすけど、女子って、自分が付き合ってもいいなぁと思っている相手としか、あんまり一緒にいようとはしないんすよね」
「それは違うと思う」
「でも実際、大した用もないのに話しかけてきた子がいたら、その一週間後か二週間後くらいに告白するようにしてみたんすけど、面白いくらいにうまく行くんすよ。まぁ長続きはしないんすけどね」
 俺はうんざりした。彼のことを子供と呼んでいいのかは分からなかったが、そういう印象を抱かずにはいられなかった。確かに、恋愛という意味では俺より彼の方が色々と知っていることだろう。女という生き物の生態についても、経験という意味では、俺は彼に対して何を言うこともできないことだろう。
 でもなんだか、そもそもの人間としての誠実さ、みたいなところに、幼さを感じた。
「でも、思うんすよ。それってなんか、恋愛じゃないなぁって。だから、そういう経験ありそうな桐沢さんに聞いてみたんすけど、やっぱ口堅いっすよね」
「そもそもそういう経験がないんだよ」
「そういうことにしておきたいんすよね? お相手に悪いから。そういや、昔から悪口とか全然言わない人でしたもんね」
「悪口がそもそも思いつかないんだよ。さて、そろそろ帰ることにする」
 ありがとな、と犬に挨拶をした。犬は立ち上がった俺のすねのところに軽く頭突きをして、返事をした。かわいらしいやつだ。
「それじゃ、宮田君。また時々この子の様子見に来るよ」
「はいはい。いつでもどうぞ」
 俺が背を向ける前に、彼は背を向けた。


 何か言われたときに、うまく言い返せないことは多かった。それで、頭が鈍いやつだと思われることも多かった。
 幼少期の頭の良さというものは、勉強ができるかどうかというより、口喧嘩が強いかどうかだった。俺は口喧嘩が誰よりも弱かったから、できるだけ人と争わないようにしてきた。あるいは、ルールの中で争うようにしてきた。
 殴られることがあったら、殴り返すようにしていた。暴力での喧嘩では、負けたことがなかった。多分それは、俺は口では言い返さないから、自分より強い人間に殴られるような機会が一切なかったからだと思う。
 俺は口で言われたことを理解はするけれど、従うかどうかはいつも自分で決めていた。返事は、基本的に無意味なものだと知っていた。だから、それに腹を立てて殴ろうとしてくる人間はいた。そのたびに返り討ちにしていたら、いつの間にか自分の周りに人が集まるようになった。多分、俺の周りでは喧嘩が少なかったからだと思う。基本的に、喧嘩なんてしなくて済むならみんなしたくないのだ。


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 同じ電車に乗って来ているから、学校までの道のりで見かけるのは何も不思議なことではない。俺は新田さんの後姿が見えた時点で、少し早歩きをして、さっさと追い抜いてしまうことにした。隣には、前とは別の、長い黒髪の背の低い女の子がいた。
「マンマミーア」
 また何やら、よく分からない遊びをしているようだった。新田さんも、楽しそうに言葉を返す。
「ミーアキャット」
「キャトリン・スターク」
「タックスヘイブン」
「ぶんぶんぶんハチが飛ぶ」
「ガトーブルトン」
「トンバミトン」
「なんだよそれ」
「バドミントンの兄弟。ちなみにトンバミトンは六男だから。トンバミトンね、真子ちん」
「トン……トングランテン」
「天才美少女海ちゃん」
「もう何でもありだな。ちゃんこそば」

 会話を聞いてしまったことを申し訳なく思いつつ足早に教室に向かった。どういうゲームをしているのか分からなかったが、前とは違い、今回は新田さんの方が食べ物ばかりになっていたことに気づいて、ひとりで少し笑った。


つづ

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