人から馬鹿にされるたびに、自殺未遂の経験があってよかったと思う


 多分この気持ちが分かる人はほとんどいないと思う。ドン引きされるのは分かってる。

 でもそれは本当のことだから、できるだけ率直に語ってみようと思う。

 私はなんだかんだ色々と、人から馬鹿にされることが多い。僻みから来るのか、それともその子が誰かを見下したいからそうするのかは分からないけれど、外に出て近所に住んでいる友達と会うと、くすくすと笑われることが時々ある。
 私はその子が今どういう生活をしているのかは知らないし、興味もないから、その子に対しては何とも思わないけれど、自分が馬鹿にされたという事実に、苦痛を覚える。馬鹿にされて、何の仕返しもできないということが、私を苦しめるわけだ。
 頭の中でひとりで言い返す言葉を探し続けてる。
「お前に笑われる筋合いはない」
「お前が人を笑うのはお前自身の不安を消すためだろう?」
「お前に笑われたって私は何とも思わない」
 見つかるころには、言うタイミングを逃している。私は動じていないように見えるのだろう。大体、相手は真顔に戻って世間話をし始める。私も適当に相槌を打つ。結局は何もなく別れる。

 私は中学生のころ、やっぱり嫌われていたのかもしれないな、と思った。だから高校に入って不登校になって、その話が、私の知らないところで広まったのだろう。
 つまり「○○ちゃんは病んで、不登校になってる」みたいな、よくありそうな型にはめられているわけだ。(最近知ったのだが、中学時代優秀だった生徒がいい高校に入ってから並の成績をとって自己評価とのバランスがうまくとれなくて体調を崩す、というのがよくあるらしい。それに当てはめられていることもあるかもしれない)
 「かわいそう」「昔はあんなに人気だったのに」「見る影もないな」
 言葉にはしなくても、伝わることはある。彼らはまだ幼いのだ。表情からも声色からも本音が漏れている。

「こんな卑近な出来事にいちいち傷ついて深く悩んでしまう私は、たしかに笑われて当然の人間なのかもしれない。私は頭を下げて、目立たないように気を付けて生きるべきなのではないか?」
 そんな考えが何度も浮かんでくる。だからこそ、自殺未遂の経験が生きてくるのだ。

 私は、本気で死のうとした。誰かに構ってもらいたかったわけではなく、私自身が私自身を許せなかったからだ。
 酷いけがをした。何カ月も悶え苦しんだ。その経験は、確かに私という肉体と精神の強さの証明となった。
「私が堂々としてはいけない理由なんてない」
「私は、そこで自信満々に立っているだけの理由がある。私は、連中より自分の人生に正面から向き合っている」
「私は連中に笑われたくらいでは、落ち込まない!」

 この時代、どこに行っても「自殺してはいけない」と言われる。そして、自殺未遂者はそれを正直に告げることも許せれないし、それだけで精神病患者か、その予備軍に勝手に分類される。
 私は自分の意志でそれを選んだ。精神科医も私が病気でないことに同意した。私は連中に理解されるほど単純な人間ではない。

 過去が人を作る。どう解釈するかは自由で、自分の気質にあった解釈をするのが人間というものだ。
 私はこういう人間だ。
 独立不羈。不撓不屈。
 誰がなんと言おうとも、私は強い私でありたい。

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