心の価値と心を傷つけることについての考察

 まず大前提として、体と心は二分されるものではないことを前提に置く。

 体というのは無時間的(物質的。動きのないものとして)に捉えることができるが、心はそれができない。というのも、もしこの瞬間を切り取ったとき、体を指し示すことはできても、心は指し示すことができないからである。

 時間の止まった世界に心臓は存在するが、心臓の鼓動は存在しない。同じように、時間の止まった世界に体は存在するが、心は存在しない。

 心とはつまり、体に対応する働きなのである。

 心臓→鼓動。血液を体中に循環する働き

 胃→食べたものを消化吸収する働き

 脳→情報を処理し体中に伝達する働き

 これと同じように、心というのはあらゆる体中の働きを統合させた概念である。つまり

 体全体→体全体のはたらき、心(魂)

 という関係性が成り立つのである。とすると、心や魂が宿っているには人間だけではなく、あらゆる時間的な機能を持つものは、定義上それに即した心が存在する、と考えるが自然である。植物や動物だけでなく、コンピュータにも心は存在する。だがそれは、人間のそれとは在り方が異なり、いうなれば内的な処理や計算、電気信号の伝達作用等が、現在のコンピュータの「心」として解されるのである。

 言ってしまえば「人間の心」とそれ以外の「動物の心」は明らかにその性質や在り方に隔たりがあり、それだけでなく「あるひとりの人間の心」と「別のひとりの人間の心」の間にも、大きな隔たりがある。

 心は、体全体に対する時間を含んだ機能である。心を時間を介さない物質的なものとして捉えるのは常に誤解であり、ありえないことである。それは「時間が止まった世界(つまりあらゆる反応が起きない世界)」において、我々は物質を介さずそれまで通り思考し、感じることを肯定することであり、不合理である。思考も感情も、体の働きであり、体がなくなれば、それが消滅するにしても消滅しないにしても、それまでとの在り方は決定的に変化するので、私たち「人間の心」が「人間の心」である限りにおいて、それは「肉体にとっての人間の心」なのである。
 肉体から離れた心が存在するかどうかは保留するにしても「肉体から離れた」ということが引き起こされた時点で、少なくともその時の「私」や「あなた」はまた別の存在として現れるため、そこに有意な同一性は認められないと私には思われる。
 死後の世界が存在していたとしても、そこで生きている人々は、肉体を持って生きている人々とは別人であり、そこに共通性、繋がり、「自分である」という感覚は、ないと考える方が自然であり、もしそれを「ある」と考えたとしても、それはひとつの「思い込み」であることを否定することができないのだ。


 さて、心が何であるか明らかにしたところで、心というものにはどれくらいの価値があり、それを傷つけることはどれくらいの罪であるか考えてみよう。

 第一、傷つけられるというのは一体どういうことなのだろうか。

 たとえば私の腕を野良猫がひっかいたとしよう。血が出て、痛い思いをしたとしよう。それがきっかけで感染症になったらまずいから、私は簡単に消毒し、ばんそうこうを貼った後、大事をとって近所の病院のお世話になることだろう。
 この時私が傷つけられたのは、私の腕である。そして、腕にひっかき傷がついたところで、腕自体の機能が損なわれることはない。ゆえにそれは重要な問題ではなく、その猫にも大した罪はない。
 しかしその傷が化膿し、腕を切り落とさなくてはならくなったとすると、私は「腕を傷つけられた結果、腕を失った」ということになり、先ほど説明したような無事であった場合とでは、全く異なる解釈を迫られる。

 ひっかき傷だけで済んだ場合と、腕を失った場合には大きな差異がある。それはどんな差異かというと「元々持っていたものが失われたかどうか」「日常生活に必要な機能のひとつが失われたかどうか」ということである。
 この二つの意味は本来的に同じ意味として捉えていい。というのも、私たちは伸びた爪や髪を切ることにあまり抵抗がない。元々持っていたものが失われること自体には、ほとんど苦しまないのである。
 重要なのは「その機能が不全になること」である。私たち自身の肉体の可能性が損なわれることに、私たちは大きな苦しみを感じるのである。
 逆に言えば、私たちの肉体の可能性、腕の場合であれば、その腕を使って色々ことができるということ自体が、私たち肉体にとっての「失いたくない価値あるもの」なのである。

 さて、先ほど説明したように、傷と言ってもすぐ治るものとなかなか治らないものがある。小さな傷がきっかけで、全部がだめになる、ということもある。
 これは目に見える傷だけでなくて、内臓的な疾患にも同じことがいえる。
 たとえば、ずっと煙草を吸っていると肺の機能が低下するのはよく知られている。最終的に肺が完全に機能不全になることはめったにないため、激しい運動をする習慣がない人にとって、それはあまり不便なことではない。実のところ、同じ傷、同じ喪失でも、その人の生活によって苦しむ量は違うのである。
 肺の機能が低下して困る度合いは、その人の生活の在り方によって大きく変わる。だから、煙草を吸うことに抵抗がある人とない人の意見は一致しないのである。

 必要な機能が失われること。傷が重要な意味を持つのは、そういう場合のみである。猫にひっかれても、それがすぐに治るなら、私は猫にひっかかれたことをすぐに忘れるだろうし、そのような傷は誰しも無数に持っている。それが自分自身に致命的な悪影響を及ぼさない限り、人は「傷つけられても別にいい」のである。

 さて、本題に入ろう。心を傷つけるとはどういうことか。

 ただ、心を動揺させること、自分が言われたくないことを言われること、自体には何の問題もない。つまり、人が傷つくことや人を傷つけること自体には、なにひとつ問題はないのである。すぐ治る軽傷に関しては、それほど深く考える必要はない。それはまったくの無問題である。機能を損なわないからである。
 問題なのは、その傷によってその人自身の体全体の機能が大きく変質し、生きていくのに必要な機能が損なわれてしまうことである。
 言葉は、その人自身の体の機能に大きく影響することもあれば、まったく影響しないこともある。そこには個人差があり、何かはっきりとした基準を設けることはできない。
 ここで「大多数が」という基準を設けることは可能であるが、だがそれは現代の感覚にあまり即していない。「大多数にとって問題がないことは誰にとっても問題がない」という考え方は、現代ではあまりにも差別的な思想、全体主義的な思想として否定的に断ぜられている。その是非は置いておくとして、おそらくこれを読んでくださっている方は、そのようなものとして捉えているだろうから、その考え方を素直に受け入れたうえで考えていく。
 基準を設ける場合においても「できる限り多くの人に当てはまる基準」でなくてはならないのであって「大多数にとって」という基準を設けてはならないのだ。大多数の人間が手すりなしで階段を上り降りできるからといって、あらゆる階段から手すりを取っ払うのは、現代的ではない。それどころか、積極的にスロープを設置するのが現代風なのであるから、「何で傷つくか」という問題も、それに従った方向性で考えていこう。

 心を傷つけること。それは言葉に限った話ではなく、行動、態度によっても引き起こされることである。

 普段優しくしてくれる人が、自分に冷たく接してきた。
 何もしていないのに、人から睨まれた。

 人は時にその程度のことで深く悩み、傷つき、日常生活に支障をきたす。たいていの場合はすぐに回復可能であるが、傷は肉体的なものと同じように、小さなものが積み重なることによって、大きなひとつの傷以上に悪い内的な影響を及ぼすことがある。

 ひとつひとつの傷自体に責任を求めることはできなくても、その傷の積み重ねによって、重い心的な傷を負い、それがきっかけでそれまで通りの生活が送ることが困難になる場合がある。

 心を傷つけることの問題は、その傷がきっかけで人の生活が揺らいでしまうことである。そこに敵意や悪意があるかどうかは、重要ではない。傷つけようとしているかどうかは、実際に傷つけられてしまった人間にとってはあまり重要でない。(それは今後「傷つけられる可能性があるか」という部分に影響し、それ自体が人の不安や恐怖を呼び起こすことは事実であるが、今はそれについては語らないこととする)

 心は体全体をつかさどる機能であるのだから、他の内臓や体の表面と比べてはるかに傷つきやすい。というのも、体全体に対応するのが心であり、体のどの部分を傷つけられても、結果的に「心が傷つけられた」ことに等しくなるからである。(わざわざ言う必要はないかもしれないが、心は体全体に対応する機能である以上、体にとって心は最大の価値を持つ)

 とすると「他人の心を傷つけてはいけない」という禁止は「人を傷つけてはいけない」という、ほぼ最大限の範囲を持つ禁止なのである。

 これが可能であるかどうかはともかくとして、この「他人の心を傷つけてはいけない」という禁止命令は、その言葉自体が人の心を傷つけうる言葉である以上、自己矛盾しているので不合理である。
 「他人の心を傷つけてはいけない」と命令された人自身が、それまで誰かを傷つけてしまったという自覚を持つ場合、その人自身の心に罪悪感という痛みが走り、傷となる。それによって、日常生活が変化し、場合によっては損なわれる。それはやはり「他人の心を傷つける」ということに他ならないため「他人の心を傷つけてはいけない」という禁止は不合理なのである。

 人は、どんな言葉、どんな行動、どんな態度でも傷つきうるため「傷つけないようにしよう」という態度自体が、人の傷の原因となりうる。ゆえに、人を傷つけてしまうこと及び、自分が傷ついてしまうこと自体に「否」を言うことはできず、むしろ人は「傷つかずにいられない生き物である」ということに同意することを迫られている。
 しかしその命題に対して「すべての」という条件は付かない。つまり「ついてもいい傷」と「ついてはならない傷」というものがあり、人が避けるべきは他者に「ついてはならない傷」をつけることであり、同時にそれは、自分自身を守るうえでも気を付けるべきことである。

 どんな傷に対しても過剰に反応するのは、かえって危険である。命どころか、数日間の日常生活に支障すらきたさない軽傷に対して過剰に反応してしまっていると、実際に自分が数か月、数年にわたって苦しむような傷を負ったときに、他人から見て先ほどの過剰な反応と区別がつかなくなってしまう上に、他人のそれと自分のそれを類比して考えた時、他者の傷を過小評価することに繋がる。(自己の軽い傷を過大評価することは、他者の重い傷を過小評価することに他ならない)

 「人を傷つけてはいけない」というのは、自分が人を傷つけざるを得ないことと、自分が誰かに傷つけられざるを得ないことに対する現実逃避であり、責任の放棄である。
 人は自分がつける人の傷に対して責任を持つべきであり、だからこそ、自分がどのように選択をするか深く考えなくてはならない。人間の生き方は複雑であり、選択肢も無数に存在する。どれを選んでも誰かが傷つく。
 人を傷つけるというのは行動に対するリスクではなく、コストである。それは危険性ではなく、対価である。それはある意味確実なことであり「かもしれない」で捉えることは責任からの逃避である。それを自覚して、選択しなくてはならない。

 人は傷つきながら生きていくものであり、そうでなくてはならない。傷つくことを受け入れなくては、自分にふさわしい傷を選ぶということもできない。
 生きるということは本質的に他者を傷つずにいられないということを自覚していなくては、他者にふさわしい傷を選び与えるということもできない。

 私たちが選ぶべきは「できる限り与える傷も受ける傷も小さくする『善良の道』」なのか、それとも「できる限り与える傷も受ける傷も美しいものにする『高貴の道』」なのか。

 私がこの時代に一番問いたいのは、この「趣味の問題」なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?