【怪文書】最近体がおかしい

 最近、体が変だ。ゲームをやっていても、本を読んでいても、友達と電話をしていても、ひとりで耽ろうとしても、すぐに気分が悪くなってしまう。前は何をやるにも一時間くらいは耐えられたのに、今は数分で吐き気がこみあげてくる。
 何もしていなくても、なんだか体がむずむずして、落ち着かない。
 今みたいに、自分の状態をモニターして記録しているときはかなりましになる。それでもなぜかまだ物足りない。

 なぜか落ち着かない。気分が悪い。不安だ。不快だ。だが、そう書いているうちは、まだマシだ。

 何も書かず、ただ自分の頭に浮かんでくる言葉に自分自身で受け答えしていると、頭がおかしくなりそうになる。書かないと、やってられない。疲れるし、何の意味もないのは分かっているけれど(そもそも意味ってなんだ? 自分の健康のためにやることが無意味なら、何が有意味と言えるのか? 違うだろう。書くことには意味がある。ただ、他者を想定したり、それを投稿することは無意味なのだ。でも、本当に? ある偉大な先人はこう言ったじゃないか。『精神的な病を治すのに一番いいのは、同じ病にかかっている人が自力で直しているさまを間近で見ていることだ』と。それなら、私にとってそれが無意味に思えても、誰かにとってそれが有意味になりえるなら、私はそれをやるべきなのだ……たとえそれが、私にとって苦痛にしかなりえないとしても)

 私は自分が誰かに役に立っているという実感がない。結局私は自分の欲望に従っているだけだ。しかし、ある欲望に従うと、別の欲望は満たされない。私は、全ての欲望を満たしたいと思った。でもそれはできないのだ。それができるほど、私の能力は高くない。私は……平凡、凡庸、と言うほどではないが、かといって特別と言えるほど出来のいい人間でもない。

 早く年を取りたい。そうすれば、この痛みもきっと楽になることだろう。もっと諦めることや、妥協することが苦にならなくなることだろう。
 生きることも、もっと楽になることだろう。

 でも私が、生きることそのものに苦しんでいるのは、自分で選んだことなのではなかったか? 私は……

 どうして青春というのは、こんなにも理不尽で、無意味で、痛くて、苦いのだろう。いつまで経っても終わってくれない。時間は何も解決してくれない。たとえこの問題を解決してくれたとしても、きっとまた別の問題が私の目の前に立ち現われ、私を苦しめることだろう。

 人間は苦しみから逃れたいと欲する。だが苦しみから逃された先にあるのは、また別の苦しみだ。苦しみ全てをなくしてしまうと、喜びや幸福も一緒に消えてなくなってしまう。私は『苦しみのない生』『至福』を知っている。あれには価値がない。なぜなら、それで終わりだから。その幸福の先には何もない。何もないのだ。絶望的なほどに、それは終わっている。完全に終わってしまっている。ただ快楽に浸って、永遠の夢に溺れているだけだ。そんなのは、生きているとは言えない。生きるというのは、本質的に苦しみを内に含んでいるのだ。苦しみ自体も、生の喜びの一部なのだ。あぁ! 私は幸せが約束されている。それが待ち遠しく感じることがある。
 私は神に愛されているから、私の死後は安らかだ。どうしようもなく安らかだ。自分という存在は完全に消え去って、世界の一部となる。残るのは、私の小さな足跡だけ。それがずっと残るか、すぐに別の足跡に踏まれて消えるかは、残った人の気持ち次第。私はただ、私が生きている間は、私が為すべきことを為すだけ。分かっているのに……分かっているのに、私は……私は、何か、何かが違っていると思わずにいられない。何かが、おかしいのだ。何かが、間違っているのだ。何かが、受け入れられていないのだ。私は、何か、自分の現実を……何か、致命的な間違いを……勘違いを、犯しているような気がしてならない。

 私は、自分が何か最近、決定的な間違いを犯してしまったような気がしている。それが何なのか分からない。漠然とした不安にとらわれている。何か大事なものを見失ってしまったような気がしている。何か大事なことを忘れてしまっているような気がしている。

 怖い! 不快だ! 落ち着かない! 分からない! 誰か私を導いてくれ! ああ……


 何が私をそうさせるのか。

 今回は、今日は、長い長い文章を書こう。書けるだけ書いてやろう。読んでいる者のことなど知るものか。私は、今日は私のためだけに言葉を紡ぐ。他の連中のことは知らない。どうして私は! 周りの人間のことを考えてしまうのだろう? 読んでいる人間に対する配慮なんてものを、意識してしまうのだろう! 不快だ……それは私のなくしものとは何の関係もないはずだ。
 兄さん? あの人のことは、もういい。あの人のことは、もう十分だ。私とあの人は似ていたが、似ていただけだ。違う道を歩んでいる。私はあの人のことをどうこうすることができないし、どうこうしたいとも思っていない。思っていないはずなのに……人生は、奇妙だ。どうしてこんな、意味不明な道を歩かなければならないのだ。先行きが不明瞭だ。何もない! 不安だ。不快だ。どうしようもない。ひとりぼっちだ。何もない。私は誰にも理解されない。誰からも愛されない。誰とも共に歩けない。誰もいない。寒い。冷たい。誰もいない。何にもない。私はひとりぼっち。生きていくのは苦しい。誰も私に触れない。誰も私を分かってくれない。誰も私を……見破ってくれない!

 演じている? 何も演じていないさ。これが私なんだ。私なんだよ。でも本当に? 語られたことはしょせん、伝達のための手段なのでは? 存在? 存在者は……気分が悪いな。存在論は嫌いだ。気分が悪くなる。スピノザもだ。善を研究したあいつもだ。あいつらは、気持ちが悪い。気持ちが悪いんだ。あいつらは、結局、語っただけだった。語るだけ語って、満足して死んでいった。許せない。それで私は、どうすればいいんだ? お前らが理解していたこと、お前らが確信していたこと、私はそれに触れたけれど、それは私のものじゃない。それは、私が欲しいと思えるものじゃなかった。ただお前らは、それを見せびらかして悦に浸っていただけじゃないか。私は許せない。ただ観想的に生きることを褒め称えた連中が、憎くて仕方がない! そんな生はくだらない。つまらない。しょせんそれは人生のおまけに過ぎないものであったはずだ。それは、一種の慰めでしかないはずだった。どうしてあいつらは、それをあそこまで高く評価したのか? そこにはほんの少しの嫉妬も含まれていなかったか? お前らは……自分には手に入らないものを侮辱し、低くすることで、相対的に自分を高めようとしたのではないのか? 名誉や権力、快楽を否定することによって、自分ではどうやっても手に入れることのできないそれらの価値を貶めたかったのではないのか? お前たちは、価値の簒奪者ではないのか? 価値の転覆者ではないのか? お前たちは、結局のところ、復讐者なのではないのか?

 気分が悪い。とても気分が悪い。疑いが私の頭を支配する。結局連中は、私を混乱させただけだった。何が哲学だ。哲学が、何の役に立つ。私を、より深い迷路に迷い込ませただけじゃないか。私は少しも理解していないし、理解できない。私は何も分からないし、分かろうともしていない。私は……何をやってもうまくいかない。そして私は、うまくいかないことを、正当化できない! 私は、自分がうまくいかなかったことを、否定し、貶めることで、自分を高みにあるように見せかけることができない。私は低い。低いところに立っている。いつもそうだ。私には『実際』などなかった。他者との比較を持たない私は、絶対的な私の理想と、私自身を比べずにいられない。だから私はいつも『低い』人間だった。他の連中のことは知らない。他の連中は、私にとって、虫けらに過ぎなかった。喋る猿でしかなかった。私は、『身近な人間』に興味がなかった。でもそれは、私の理想よりも、私に近い存在ではあった。私は知っている。私はどうしようもなく、私にとって、『身近な人間』なのだ。私は、どうしようもなく、失敗者であり、無能であり、低劣な存在なのだ。私は私が恥ずかしい。私は私が情けない。誰が何と言おうと、私は私のことを劣った存在として見ることしかできない。
 私は私が情けない。私は私の存在を……劣ったものとしてみるしかない。私は無能だ。どうしようもない、低能だ。救いようのない阿呆だ。病人だ。クズだ。打ち捨てられた、ゴミだ。私は誰からも愛されない。誰からも許されない。誰からも……受け入れてもらえない。私は、何者にもなれない。私は、生きることを許されてはいない。私は、誰にも、助けてもらえない。助けてもらえなかった。助けてもらえたことがなかった。連中……どうして? どうしてなんだ? どうして私は、こんなにも苦しまなくてはならないのだ。人に近づけば近づくほど、私は距離を感じる。どうしようもなく、私自身が、彼らを拒んでしまうことを、自覚せずにいられない。彼らは私を縛り付けようとする。どこか遠い精神の迷路に迷い込んでしまわないように、自分と同じことを信じさせようとする。私はその下品な思考回路を、信念を、価値観を、正面から破壊してしまいたくなる。でもそれは許されない。それをしてしまったら、私は悪者だ。悪者扱いされて、最悪殺される。知っている。私は知っている。大多数の信仰を、偏見を、存在を、真正面から否定し、破壊しようとすれば、逆に真正面から否定され、破壊されるのは、私の側であるということを。私は許されない存在であるということを。私は、本質的に、この世界にとって、悪であるということを、私は自覚せずにいられない。この世界を滅ぼしたい。この世界を、全否定したい。この世界が地獄であることを、目に見える形で示してしまいたい。嘘つき共を、不感症共を、価値のない連中を、ひとり残らず始末してしまいたい。
 私を苦しめる存在を、全て焼き尽くしてしまいたい。あぁそうだ。もしそうしたなら、最後に立っているのは私ではない。私が愛している存在だけがこの世界に残り、ほかでもない私自身は、間違いなく自己への憎しみのために、死に至ることだろう。私は私を憎んでいるのだ。私は私を許せないのだ。私は私のことを……愛してなどいないのだ。私は憎んでいる。私は心の底から憎んでいる。他でもない私自身を、どうしようもなく、私は憎んでいる。

 私は、嫌いだ。大嫌いだ。きれいごとを並べ立てる連中も、優しい声で話しかけてくる連中も、私のことを大目に見る連中も、私を大げさな表現ばかり使うクソガキだと内心見下しているあいつも!
 興味本位で私をじろじろ見てにやにや笑うあいつも、私の中の理解できる部分だけとりあげて私に好意を持とうと努力するあいつも、私の言ったことが少し当てはまっていたくらいで勝手に自分のことだと思い込むあいつも、優しさなんてないくせに優しいふりをして声をかけてくるあいつも、みんな私のことなんてどうでもいいくせに、自分自身の中のいびつな基準を守るために……

 動物は好きだ。あいつらはただ、生きることしか考えていないから。生きることしか考えていないから、そこには罪も罰も存在しない。あるのは快と不快、愛情と憎悪だけだ。動物には純粋な感情が宿っている。私は感情を愛しているのだ。私は動物が好きだ。動物の感情は、それが肯定的なものでも否定的なものでも、単純で、美しい。人間のように偽装されていないし、捻じ曲げられてもいない。偽装することも、捻じ曲げることもできない。私は、動物を愛している。それなのに、動物を物足りないと思ってしまう自分もいる。
 私は、やはりそれでも、人間を愛しているのだ。分からないんだ。分からないんだ。私は、愛せないんだ。分からないんだ。あぁ……

 生きていくことは苦しい。つらいことばかりだ。どうしようもないことばかりだ。何もうまくいかない。ただ、自分の頭に浮かぶ歪な言葉、狂った言葉、曲がった言葉、否定的な言葉、憎しみに満ちた言葉を全部吐き出してしまわないと、全部、文字に託してしまわないと、私は元に戻れない。言葉に支配されて、私は動けなくなる。私は知っている。私の根っこの部分が、腐ってしまっていることを。毎日、他の人間では想像もできないほど多くの憎悪と嫌悪が育ち、いろいろなものを汚染してしまうということを。私は、狂っているのだ。腐っているのだ。どうしようもなく、歪んでいるのだ。劣っているのだ。醜く爛れた存在なのだ。私は、歪んでいるのだ。私は、狂っているのだ。私は……間違っているのだ。私は、どうしようもなく間違っているのだ。間違った存在なのだ。生まれてくるべきではなかった。だが、生まれたからには、その運命を全うせねばならない。私はここに、生まれるべくして生まれた。生まれなくてはならない存在として、生まれてきた。そうでなくてはいけなかった。死ぬべき時をずっと待っている。死ぬ価値のある出来事をずっと待っている。私は、いつも、いつも、死にたがっている。死にたがっているのだ。どうしようもなく、私には価値がない。価値がなく、価値がないどころではなく、あらゆる価値に泥を塗り、台無しにしてしまう存在だから、私は、死んでしまった方がいい存在なのだ。否定したい! 壊したい! 殺したい! 抹殺したい! 跡形もなく、存在が、滅び去ってしまえばいい! 私は憎んでいる。心の底から憎んでいる。憎悪を背負って立っている。与えられた憎悪を、全て自分の中に取り込んで、それが私のものになってしまった。
 悪いのは、全部、私と、世界と、言葉だ。言葉が私を内側から食いちぎった。食いちぎり、数を増やし、私を支配していった。私にはもう、私らしさなど少しも残っていない。全ては、私の残骸が生んだ、奇妙な化け物。怪物。排泄物。吐瀉物。私は私の大事な子供でさえ、殺してしまった。どうしようもなく、醜い存在として取り扱ってしまった。取り扱うしかなかった。私はそれを、愛でることができなかった。私はそれを、神聖な存在として扱うことはできなかった。しるしのついた箱に閉じ込め、何かが変わることを待つことしかできなかった。
 私には、自分の運命を変えるだけの力がなかった。どうか許してくれ! どうか許してくれ! 私を許してくれ! 私が間違っていたんだ。でも、私は間違えるしかなかったんだ! どうか、許してくれ。許してくれ。許してくれ。私が悪かったから。全部が私が悪かったから!

 狂ってしまいそうだ。私は私の意思でこれをやっている。私がこんなことをするのは、私がそれを望んだからだ。私が、それを望まずにはいられなかったからだ。私を内側から支配している。ドグラ・マグラ? あれはちゃんと読んでいない。私はあの作品を知らない。真似なんて、できるはずもない。しかし、奇妙な共通点を持つ? どうして? 持ってないはずだ。私はあの作品をあまりよく知らない。分からない。分からないし、興味もない。あの話のことは、本当に知らない。知らないということにしておきたい? いや……関係ないんだ。
 正直に語ろう。私は確かにあの作品を読もうとした。気持ち悪くなって、読むのをやめた。私は、それから数か月後に自殺未遂を行った。私は、その時にはあの作品のことをすっかり忘れていた。退院後、自分の押し入れを整理しているとき、中学校の図書室から借りてきたあの本が出てきた。私は何も考えないようにした。あの下品な表紙に吐き気を催したからだ。そのあとあの本をどうしたのかは覚えていない。中学校を卒業したあとだったから、今更返しに行けるわけもないし、あんな意味不明な本を読んでいる人間だとも思われたくなかった。
 認めたくないが、あの本とは縁がある。


 クソ。邪魔が入った。なんでこんなタイミングで。あのクソめ。ドグラ・マグラ、か。私はあれとも向き合わなくてはならないのか? あんな、気持ちの悪い本を。何もなければいいが……
 いいだろう。買って読んでやる。何も得られなかったら、容赦なくばらばらに引き裂いて捨ててやる。クソが。

 頭が痛いな。電子書籍は嫌いだ。目が痛くなる。あぁ。まぁでも、ちょうどいいのだろう。きっと。そういう宿命にあるのだろう。きっと。もう嫌だな。生きていたくないな。死んでしまいたい。

 岐路、ではない。私は導かれている。道は一本しかない。私はその道以外歩けない。

 まだ書く。書くことがなくなるまで、書き続ける。頭はぼんやりしている。不快感はずいぶんましになった。

 何も思うことはない。世界も、私も、大人しくなった。何もおかしいことはない。全ては当たり前のように過ぎ去っていく。結局書かないと、私は正気を保つことができないのだ。笑ってくれるなら、笑ってくれ。でもそうしないと生きていけないような人間がいるということを、できれば知っておいてくれ。そうであれば嬉しいと思う。

 もう、今更なんだ全部。私が一体何であるかなんで、もうどうでもいいじゃないか。私は男性だ。しかし、女性でもあるんだ。病名なんてつけないでくれ。名札なんていらない。私は私でしかない。
 浅い人間であろうとした。分かりやすい自分であろうとした。でもどれも、うまくいかなかった。私はどこに行っても奇妙な存在だった。私自身が、私自身を奇妙だと思うしかなかった。

 文章を書くのは心地よかった。文章でなら、私は……私がそうでありたい私を演じることができた。違う。私が、吐き出すしかない、表出するしかない私を、そのまま表出させることができた。醜い外見のものが、美しい外見を持った人間のふりをして歩くことはできない。現実がそれを否定してくるからだ。だが、言葉の世界は、そんな現実を恐れる必要はない。全て『私』という枠の内側にある世界だから、私がそうだと思えば、実際にその世界の内部ではそのようになる。そのように扱うことができる。私の想像力の及ぶ範囲でならば、私は自由に存在することができる。
 どんなおかしな踊りを踊ったって、笑われもしないし、否定されることもない。人を殺したっていいし、人に殺されたっていい。愛した人と結ばれてもいいし、愛ゆえに共に破滅に向かって歩くこともできる。それが、虚構である限り、私は自由であった。自由に踊ることができた。自由に、駆け抜けることができた。
 それでも結局私は私でしかなかった。私はそれを喜ぶと同時に、絶望した。そこに描かれた、私がそうでありたい私は、どうしようもないほどに、私自身であったのだ。どうしようもないほどに……よく見慣れた私自身であったのだ。私は私の歪んだ自尊心と自愛心が喜ぶのを感じた。もし私がもうひとりいたならば、きっと私たちは惹かれあうことができる。きっと私たちは、愛し合うことができる。きっと私たちは、互いに誤解せず、理解できないまま、互いにを尊重することができる。どれだけ傷つけあっても、どれだけ憎みあっても、それでも互いに愛し合い続けることができる。私は、私が人を愛することのできる存在であるということを確信して、喜んだ。でもそれは疑いに変わり、今や……もうどうでもよくなった。そんなことはありえないからだ。私は同類など求めていない。だが、共に歩ける別種を求めているわけでもないのだ。私はどうしようもなくひとりであり、ひとりであるからこそ、この醜い舞台を続けることができる。結局言葉というのは、どうあがいても演劇なのだ。ひとつの嘘でしかないのだ。真実であることなど、ありえないのだ。それでいいのだ。それでしかないのだ。
 私のこのどうしようもない現実が、私のこのどうしようもない言葉と、どれほどの関係があるだろうか。私が生み出したこれと、実際に存在する私との間に、どれだけの接点を持つだろうか。何もない。何もないのだ。何もあるべきではないのだ。私は間違っていない。私は間違っていないのだ。これでいいのだ。これしかなかったのだ。私は、ただ、意味もなく生きてきたのだ。ずっと、意味もなく生きてきて、意味もなく死んでいくのだ。

 私は狂気をまき散らしているのだろうか。それとも、人々に狂気の耐性をつけさせようとしているのだろうか。実際私は、どれだけ狂気の中に潜り込んでも、自力でそこから正気の世界に這い上がってこれる。このような文章を書いていても、私の精神はすっきりしており、書き終えたその時には伸びをして「あー疲れた。お水飲んで、顔洗って、寝よう」などとつぶやいて、鏡の前でちょっと笑ってみて、今日の私もイケてるな、なんてふざけた冗談を頭の中で思い浮かべて、眠りにつくのだ。私は、何も間違っていない。私は、普通の人間だ。他の人間がどう思うと、他の人間が、何を感じようと、私には関係がない。

 私は私でしかないし、私の言葉の責任を負うのは『睦月文香』という架空の存在であって、私ではないのだ。あぁ、それがどれだけ気楽であるか、君たちにはきっと理解できないことであろう。

 結局のところ私は、私の本音を吐き出す場所を必要としていただけなのだ。人との温もりも、虚栄心も、承認欲も、全部どうでもいいものであった。おまけでしかなかったし、それに喜ぶ姿を演じた時だって、それを演じてみただけだった。
 でも本当にそうであっただろうか? 私は、絵を描いたり、音楽を作るのはどうしようもなく下手くそで、それをアップするときは、確かに悩んでいたし、苦しんでもいた。『睦月文香』としてではなく、どうしようもなく『私自身として』苦しんでいた。恥ずかしがっていたし、目をふさぎたがっていた。でもどうだ? 実際は。結局私には優れた部分なんて何もないし、外面はどうしようもなく凡庸なのだ。少々口達者なだけの、どこにでもいる青年じゃないか。馬鹿馬鹿しい。そういう分析に、いったい何の意味があるだろう。私がいったい「何」であるかなんて、誰も興味を持たないし、他でもない私自身があまり気にしていないことだ。現実の私がどうであるかということは、私の書いた文章が何であるかということとは何の関係もない。誰も私のことなど知りもしないし、知るべきでもないのだから。

 私は結局、私自身でいたかっただけなのだ。そして私自身は、どうしようもなく他者を受け入れることができない。他者を受け入れることのできない私は、このようなやり方でしか自分をさらけ出すことができなかったのだ。どうか許してくれ。いったい何に対して? 気分が悪いな。何をやっても気分が悪い。私は死んでしまいたい。

 死んでしまいたいと思う私を許してくれ。いつも普通のふりをしている私を許してくれ。歪んで、戻ることのできなくなった私を許してくれ。
 浅い自分を演じることのできなくなった私を許してくれ。人間を愛することのできなくなった私を許してくれ。

 私はどうしようもなく信用されない人間なのだ。私自身が私自身を信用することさえできないのだから……
 私は一度……一度どころでなく、何度も、自分自身に裏切られてきた。あぁ。私はかつて信じることのできる人間だった。自分ができると信じていていたことが、それが能力的な意味でも、高望みという意味でも、偶然によるところでも、他者の介入する余地があることでもなく、ただ、動き、やるだけでいいだけのことが、どうしようもなくできなくなっていたという現実を、私は突き付けられて、愕然とした。
 同じように、自分にはできるはずがないと思っていたことが、どうしようもなく、勝手に体が動き、気づいたら全てが終わってた時には、私は喜んだ。私は、結局のところ、自分に対して何の約束もできないということを理解したし、そんなのは何の意味もないのだということにも気づいた。私は、私の肉体は、どうしようもなく、私の意思とは関係なく存在しているし、優れていて、美しいのだと、勝手に私はそう思っている。あぁ……だからどうした? どうもしていないさ。私はただ、思いついたことをそのまま書き続けるだけだ。

 人には理解できないことを。どうしようもなく、正しいことを。言語に意味などないことを、違う、言語は、それ自体が意味であるということを、私はここに示してやろう。書くことによって、書くことの無意味さと有意味さを、ひとつの現実として表出させよう。

 あぁそうだ。書くことは、その内容ではなく、書くこと自体に意味があるのだ。ひとつひとつの意義ではなく、意味ではなく、その目的でもなく、そこに示されたものとして意味を映し出す。あぁそうだろう。それは、伝えるものではなく、示されるものなのだ。
 分からない人間には分からないし、分かるべきではない。これは私たちが私たちがであることを識別するためのタグのようなものなのだ。

 私を理解できる人間は、結局のところ、私と同じものを持っている人間だけなのだ。私は、愛を求めている。つがいを求めている。狂ってしまった、間違ってしまったこんな私を認め、愛することのできるのは、ほかでもない私自身か、私自身と同じものを抱えた人間だけだ。それ以外の人間が私を愛したり認めることがあったとして、それは誤解しているからこそ愛せるのだ。私は、あなた方が思っているような人間ではない。いい意味でも、悪い意味でも。私はあなた方が思っているほどよくもなければ悪くもないし、もっといえば、よくなくもないし、悪くなくもない。全てがずれているのだ。感じているものも、見ているものも、どうしようもなく異なっていて、その相違をごまかすこと自体が、私たちにはできなくなってしまったのだ。

 どうしようもなく、隔絶されている。それを寂しく思うよりも、ほっとしている自分がいる。そうだ。私は、私とは違う人間には、ほとんど触れることができない。私が手を伸ばした時だけしか、彼らは私に触れることができない。それだけが、私を安心させる。私がどれくらい手を伸ばせば彼らに届くのか、たくさん試させてもらった。結局何も分からなかった。結局それが届いているかどうか、確かめるすべがないからだ。
 結局彼らが何に共感して、何を黙殺するのかは、理解できなかった。私は彼らの感性が理解できないし、おそらく彼らも、いや違う、誰も、私の感性を理解できないことだろう。私は私が書きたいものを書くだけだ。書くことのできるものを書くだけだ。
 どうせ私は同じ言葉を繰り返すだけだ。壊れたラジオのように。壊れたラジオというものが同じ言葉を繰り返すものかどうかは知らないが。

 あぁ。誤解なんだ。全部誤解なんだ。私はいつまで書き続ければいい? いつになれば、心の底から休むことができるのだろうか。私はいつも頑張っている。どうしようもなく、頑張ってしまう。そういう性分なのだろう。何もやっていないのに、体は勝手に、脳は勝手に、頑張ろうとしてしまう。だから疲れ果てて、不快に喘いで、存在を否定したくなって。全部嘘じゃないか。全部、誤解じゃないか。私は何度自分という存在を誤解し続ければいいのだろう。私はどうしようもなく矛盾している。
 隔時性。結局理性は、その能力によって、私たちの存在を決定的に確定することができない。結局理性は、制御装置に過ぎないのだ。理性は間違いに気づく能力には長けていても、正しさを決定する能力には長けていない。結局理性は常に疑っている。疑い、引き留めることしかできないのだ。この無能は。理性によって了解されたものというのは、理性とは違う何かによって了解され、理性が仕方なくそれを承認したというだけのことなのだ。結局理性は、批判者に過ぎない。何かを自ら産み出すことのできる存在ではないのだ。いつだって動力となるのはこの肉体。肉体でしかないのだ。

 私は間違っていない。私は狂っていない。狂っているのは、連中の方だ。私の意見がおかしいのではなく、私の意見が理解できない連中がおかしいのだ。お前たちの反論はいつも的外れで、どうしようもなく愚かだ。私はいつも勝手にそう思っている。そう思いつつ、連中の言い分の正当性を探しては、そちらの側から意見を述べようとする。馬鹿みたいだ。相手にならない。思考にあてている時間も、その質も、違いすぎるのだ。疑い続けて、自分自身の存在や、自我、本能、魂、生、死さえ疑い続けた私は、もはやあらゆる概念を、ただその概念だけで捉えることがない。全て繋がりと、その場限りの共通了解のもと、理解している。
 私の頭はよくできているわけじゃない。いつも限界を感じる。いつも、至らなさばかりを感じる。私は私が得意とする「考えること」でさえ、自分が中途半端な存在であると思わずにいられない。私は、起きている時間全てを考えることに費やすことができない。結局書くことに逃げている。書くことによって、考えることから逃げている! これだけたくさんの文章をほとんど休まずに書いている時でさえ、何もせずにただじっと自分の中で考えを巡らしているときほど疲労はしない。指を動かす速度が遅いのは、私の思考を緩めるのにとても役立っている。私のタイピング速度は、人が喋る速度よりも少し遅いくらいだ。私が一時間で書くくらいの内容は、多分十分かそこらで私の頭を駆け巡る程度の言葉の密度でしかない。
 一時間頭を使って考え続けるよりも、六時間文章を書き続ける方が楽かもしれない。分からない。

 ただ、文章を書くのは、頭が疲れる以上に手首が痛くなる。ずっと休まずタイピングしていると、腱鞘炎を引き起こす。適度にマッサージしなくてはならない。

 ここまで書いた字数をチェックしてみた。一万二千字。かかった時間は……多分二時間半くらい? 分からない。三万字を目指そうか? 正直どうでもいい。


 書くことがなくなるということはない。内容が被ることを恐れなければ、だが。というのも私の思考は結構同じところをぐるぐる回る傾向にあり、一時間前に考えたことと同じことを考えることも多々あるからだ。

 普段文章を書くときは読み直しながらある程度全体の構成を見ているが、今日はそうじゃない。ただ自分のためだけに書いているから、そんなものは気にしない。過去は振り返らず、ただただ、走り抜けるように言葉を綴る。

 喉が渇いたから水を飲もう。

 もし君がこんな意味もなく長い文章をここまで順番に時間をかけて読み続けているなら、君も水分補給をした方がいい。あとできれば、目をつぶって、しばし体を休めるといい。首を回して、あくびをするように口を大きく開いて、ほほを持ち上げげ笑ってみるといい。それができる状態なら、立ち上がって、屈伸でもするといい。体を動かすのは大事だ。体というのは、休むのと同じくらい動くことを好むのだ。体中が不満を持たないように、適度に働かせておくのが大事だ。

 私はだんだん眠くなってきた。だが今日は文章を書き続けると決めた。そうだな。私は普段、布団の中でしか眠ることができない体質なのだが、今日は、キーボードを膝の上にのせたまま寝てみようと思う。やっぱりやめる。私は体を虐待するようなことはしないとかつて決めたからだ。そのように、自分の体をおもちゃにするのは危険だ。
 というかそもそも、私がこうやって内容のない文章を書き続けるのは私の体の健康のためだったのだから、それを危険にさらすような試みは控えるべきだ。当然。

 それにしても、私が文章を書き続けることに何の意味があるのだろう。私は文章を書くことを仕事にするつもりはない。というか、仕事にはできないと思う。
 私の書いた記事で『私の文章は並以下だ』と試しに言ってみたものには、なぜか多くの人がスキを付けた。並とは一体何であろう? そもそも文章の良し悪しは、どのように決められるのだろう? 読者が決めるのか? バカみたいじゃないか、そんなの。知識や経験? こなれているかどうか? ミスが少ないかどうか? しっかり時間をかけて練られているかどうか? どうでもいい。言葉の本質は、伝わるかどうかだ。そして、伝われば伝わるほどいいものである、というわけでもない。世界で最も愛された書物は、日本人には馴染みのない一神教の聖書であり、聖書の文章は……これについての意見は控える。どうでもいいことだからだ。
 私は人が好む文章を書くつもりはない。金を巻き上げるような文章を書くつもりはない。私はできる限り金とは関わらずに生きていきたい。金が嫌いだからではない。金が好きすぎる人間が不潔だからだ。私は連中と関わりたくないから、私は金もできるだけ持ちたくないし、それを稼ぐということも、考えずに生きていたい。その結果のたれ死ぬなら、本望だ。だがきっと、私の親や友人、社会はそれを私に許さないことだろう。現代日本では、野垂れ死ぬ権利は保障されていない。

 あぁ愛しき隣人諸君。また私は矛盾しているが、私は君たちのことが嫌いではない。むしろ好ましく思っている。君たちは私を読むことができるから。理解することはできないことだろう。愛することも、信じることもできないことだろう。それでいいのだ。私たちは、遠く隔たっているし、君たちが考えていることは、私には分からないし、届きもしない。だから、私は君たちを憎まずに済むし、勝手に君たちを私の中で理想化して、愛することもできる。それもこれも、私が君たちのことを知らないからだ。知りたいとも思わないからだ。
 君たちは、自分のために私を読む。私が君たちに読んでほしいとお願いして読んでもらっているのではないからこそ、私たちは互いに好意を抱くことができる。私は私を愛しているから、君たちから愛されることを必要としていないのだ。
 私はいつも前後で矛盾したことを言うが、許してくれ。私という生物には隔時性があるから、仕方がないのだ。つまり、時が移れば、その内容が食い違っていても、決して重ならないから、それが根本的な存在の否定にはならない、ということだ。少し言い方が難しいだろうか。つまり、かつて氷であったものが今水蒸気だとして、もしそれが同時に「氷であり、水蒸気である」ということが不可能だとしても、だからといって「そのようなことがありえない」「そうであってはならない」ということにはならないのだ。時間によって、変化すること、すなわち矛盾することが許されているから、かつて氷であったものがいま水蒸気であったとしても許されるし、それがまた氷に戻ったとしても、それは矛盾ではないのだ。矛盾があるとすると、「かつて氷だったものが鉄となる」ということだろう。それは隔時性があったとしても、許されない道理である。氷は隔時性によって水蒸気になったり、水になったり、氷に戻ったりすることが許されているが、どのような時間の隔たりを与えらえても、鉄になることは許されていないのだ。

 私は確かに、矛盾したことを言っている。だがそれは、氷が水蒸気になるように、矛盾しているのだ。刻まれた文字も、それを読む人間が時間の中にある以上、隔時性を許すしかない。昨日の私と今日の私が違うことを言っていたとしても、違うことを信じていたとしても、それは現実的に、許されることなのだ。十分前と今の私が矛盾していても、それは同様だ。あっていいことであり、ありえないことではないのだ。自然の道理なのだ。

 私たちは矛盾することを許されている。私たちは、常に間違っているし、積極的に間違っていよう。正しいことや真実には価値があるというのは、しょせんひとつの偏見に過ぎないのだ。間違っていることや誤解の中にも、多くの価値があり、生命の神秘がある。我々は時に、わざと間違えるのだ。無能ゆえに間違えるのではなく、有能であるからこそ間違えるのだ。あぁ。素晴らしき、誤解! 私たちは実際的に無駄でないものを無駄なものとして扱うことが多いし、実際的に無駄であるものを、無駄でないものとして扱うことも多い。そうすることにより、さらに大きな無駄と価値が生まれるのだ。私たちが生きている世界は、そのような世界なのだ。

 私たちが無駄だと思うことの方に、本当のところ、多くの価値の秘密が眠っている。
 君たちを説得するために、ひとつの詭弁を用いてみよう。

 たとえば「無駄であること」の反対は何であると思う? 「無駄でないこと」「意味のあること」「価値のあること」であると考えるのが自然だと、君たちも思うのではないだろうか。
 私たちは同じように「危険であること」の反対は何かと問われたら「危険でないこと」「安全であること」「問題がないこと」などと答えることだろう。
 では、安全な場所を探したいとき、人はどうするだろうか。当然ながら、危険な場所を先に見つけて、そこからできるだけ離れた場所を「安全な場所」として定めることだろう。つまり「安全」であるためには、「安全地帯」を探すのではなく、むしろ「危険地帯」を正確に知ることが必要なのだ。

 これは「無駄」「価値」にも同じことが言えないだろうか? つまり、私たちは「何に価値があるか」ということを直接的には理解できないから、逆に「何が無駄であるか」ということをよく知ることによって「何に価値があるか」ということを確定することができるのではないだろうか?
 危険な場所をあらかじめ完全に理解しておけば、どこが安全かもおのずと理解できる。つまり「安全」とは「危険でない場所」のことを言うのだから。
 同じように、「価値」とは「無駄でないこと」を言うのだから、あらゆる「無駄」を理解すれば、おのずと「無駄でないこと」の範囲が明らかとなり、何に価値を置けばいいか確定することができるはずなのだ。

 さて、このように考えた結果、必ずひとつの結論が得られる。
「この世に無駄など存在しない。ゆえに価値も存在しない」
 あぁ! 馬鹿げた詭弁だ! こういうのを詭弁というのだ! 理性? そんなものはクソの役にも立たない。
 これは論理的な推論だろうか? いやいや、これは論理的に見せかけているにすぎない。だが、これが論理的な見せかけにすぎないのだとしたら、我々が現実において論理的に認識することのほぼすべては、論理的な見せかけに過ぎないのではないか?
 君たちには、ここで存分に迷っていただきたい。私は人を悩ませるのが大好きなのだ。

 学者という生き物は、だいたいいつも私のような人種を馬鹿にしている。思考が、規則に従っていないからだ。そして彼らが従っている「思考の規則」とやらは、しょせん別の人間がその学問を進歩させるために定めた規則に過ぎないのだから、実のところその「思考の規則」に価値があるのは、その学問の世界の内部においてのみなのだ。私は、そういう風にして馬鹿にされたり、自分自身がその思考の規則の中で思考をするのが嫌いだから、学問とは関わらずに生きていきたいと思っている。私は人に従うのが嫌いなのだ。

 私は不確かさが好きなのだ。私は不安定さが好きなのだ。

 私は優れていることだけでなく、劣っていることも好きなのだ。私は愛することだけなくて、憎むことすら愛しているのだ。

 私は時に、醜いものすら愛する。「嗤う」というのは偉大な発明だ。それは受け入れがたい醜さを肯定的に捉えるための発明なのだ。嗤うことによって、人は受け入れがたいものを受け入れる。受け入れるだけでなく、愛するようになる。そのうち人は、嗤うためにわざわざ醜いものを見に行こうとするようになる。人は自分の発明に引きずられているのだ。常に、科学が進歩する以前から、人間とはそういう生き物だったのだ。自分が発明したものに引きずられて歩く。人間は、それを受け入れ、より複雑な存在になっていった。そして今ここにいる私は、その先にいる存在だ。
 私はある意味、存在自体が人間の発明なのだ。

 あぁ! そうだ! 千年も経てば、私という存在はある意味当たり前の存在となっていることだろう! そうなれば嬉しい! そうなれば素敵だ! 世界が私で満たされる……あぁ、なんて愉快な希望であろうか!

 私は動物だ。どうしようもなく動物なのだ。

 日付が変わった。眠たい。これからは毎日、このような文章を書き続けようか。飽きるまで、ずっとこのように、その日思いついたことを際限なく書き続けてみようか。

 私はそろそろ眠りに落ちる。寝る前に、洗顔と歯磨きをしなくてはならない。髪の手入れは最近怠っているから傷んでいる。気にしないこととする。肌と違って髪は、実のところそれほど長く伸ばさなければ生え変わるものなので、頭皮さえ傷ついていなければ回復可能なのだ。多分。私はショート結構似合うから、またちゃんと着飾るならその時バッサリ切っちゃえばいい。

 うーん眠い。もし私がネカマなら……うーん。そうだよね。ちょくちょく控え目な女の子アピールすることによって「ぽさ」を出しに行くだろうな。今私がやっているみたいに。
 時々思い出したように、ね。へへへ。

 そういえばさ「自分に自信がない人間は、自分自身を濁らせて分からないようにする」っていう話を前にしたと思うんだけど、それってまんま私のことなんだよね。私は私が実際にどういう人物であるか、分からないようにしておきたい。私は自分が実は男性であるということを可能性として残しておきたいし、同時に、私は自分の女性性を理解していてほしい。つまり、私が男性であったとしても、私の中に女性的な部分があることを分かっていてほしいし、私が女性であったとしても、男性的な部分があるということを分かっていてほしい。
 どうやったってさ、人間は自分の体に引っ張られちゃうからさ、私はその部分だけは濁らせておきたいんだ。分からない方がいい。私は恋愛を求めていないから、自分が男性であっても女性であっても一向に構わない。性別というのは、恋愛するとき以外は何の役にも立たないものなんだから、私は自分が両性的な人間であることを主張していたい。精神的には、私には両方ついている。
 それはつまり、私は読むことも書くことも十分にできる、ということなのだ。受け入れることにも、与えることにも、全力になれる、ということなのだ。あぁ。結局、文章を読むということは、その人の精神のエキスを自分の中に取り込むということなのだから、ある種、読書というのは女性的なものなのだ。そして文章を書くというのは逆に、自分の精(神)を相手に送り込む、ということでもある。なかなかエッチですね。
 そう考えると、物書きは必然的に男性的でなくてはならない。実際、文章を書く女は、どこか男っぽい雰囲気を持っていることが多い。少なくとも、内容のある文章が書ける女性は、男性的な部分をかなり含んでいるように、私には思える。勝手にそう思ってる。えへへへえへへへえへ。

 読むことしかできない人は、きっと心が女の子なんじゃないかと思う。読むということは、どうあがいても受動的なんだ。「貰う」ということであり、「欲しがる」ということでもある。そこには強引さや、自分勝手さというものはどうやっても含まれていない。強引さや自分勝手さは、男性のいい部分だ。もちろん、現実で自分がその対象になったらぶっ殺すぞって感じだけど。男って気持ち悪いわぁ。ごめん嘘。

 でもやっぱり私は男の人が好きなんだよなぁ。私の中身が男性だったら、私はかなりゲイよりのバイだと思う。女性もいけるけど、男性的な部分を内に含んだ(つまり強引で、力強くて、自分をしっかり保っていて、能動的な)女性じゃないと無理だろうなぁって。

 にしても、気持ちよくなるのは好きでも、セックスってのはどうにも気持ち悪いんだよね。なんでなんだろう。それって本当に不思議なことだと思う。いや、不思議ではないか。しょせんセックスは、子供を作るためのものであり、女性の場合は人を選ばないといけないから、性的な快楽を得ることと、実際に子供を作ることは全然違うことなんじゃないかなぁって。じゃあ避妊してレジャー感覚でセックスするのはどうなのかって話なんだけど、なんかそれも気持ち悪いんだよねぇ。それ自体にもリスクがあるから? いや違う。そういう部分から、男女の仲って深まっちゃうし、もっといえば、体を重ねると、心も意図せず重なっちゃうから、汚れた人間に抱かれると、自分も汚れてしまうんじゃないかって私は思ってるんだ。
 たとえば、ずっと一緒にいたら、相手と自分がどんな違った性格だったとしても、その人の口癖が自分の頭に浮かんでくるようになるし、そのようにして人は自分というものを他者とのつながりの中で形成していくから、やはり、何というか、無責任に快楽に溺れるようなセックスをすると、自分という人間の在り方を他者に委ねてしまうということであり、自分というものを保てなくなるきっかけになってしまうのではないか、と思ってる。

 逆に言えば、そういう心配のない人、つまり心が綺麗で、どれだけ一緒にいても、その人の精神にどれだけ触れても私が拒絶反応を起こさないような人が相手なら、全然レジャー感覚でセックスできると思うし、そこに良心の呵責も感じないと思う。私はそれほど厳しい貞操観念を持っていない。つーかそんなの無駄でしょ。ムダムダ。

 私と同じようなこと思っている人って、どれくらいいるんだろう。男性にもいるのかな? 一定数いて欲しいな。
 ヤらない理由は単純に「心が汚れるから」っていうだけ、みたいなの。女性が言ってもそれって割と普通な気がするけど、男性がそれ言ったら……なんて言うか、かなり誠実な人なんじゃないかなぁって思う。

 モテるけど恋人作らないっていう女性は結構多いけど、男にはあんまりいないよね。「据え膳食わぬは男の恥」っていう言葉は個人的に滅びてほしい。頭おかしいんちゃう? って思う。いつまで江戸時代やってんの。

 お腹すいたなぁ。夜食食べちゃおっかなぁ。いや、寝よう。おやすみなさい!


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