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【ランダムお題思索】少年十字軍・ケーニヒスベルクの橋・痛税感

前置き

 今回はテーマを先に決めてから考えることにしてみる。普段テーマを決めるときは「問」の形式であることが多いんだけど、今回は単語でやってみる。
 関心のある分野の単語でもいいんだけど、それはいつもやってるし、今日はランダムで決めようと思う。


 ランダムにお題を出すサイトで、出てきたのは……少年十字軍、ケーニヒスベルクの橋、痛税感!

 よしこれらについて考えよう。

少年十字軍

 少年十字軍ね。あれでしょ? 志願兵募ってエルサレム奪還目指した十字軍のあれでしょ? なんか、子供を奴隷として売り飛ばした事例とかもあったとか。村の口減らしもかねてみたいな話も聞いたことある。あんまり気分のいい話じゃないね。
 私、あんまり十字軍については勉強してないな。国家や商人にとっての利害の問題もあれば、教皇の我欲がうんぬんという話も聞いたことがある。
 なんか、自分の知らないことについて調べずに話すのって難しいね。ちょっと検索してみるね。

 うーん。ウィキペディア読んだけど、別に……歴史的事件ですねぇとしか言いようがない。この件から「宗教はクソ」なんて言えるわけもないし、なんつーかなぁ。
 話変えよう。十字軍のことはよくわからないや。

ケーニヒスベルクの橋

 ケーニヒスベルグの橋。有名な観光地か何かかと思ったら、それにちなんだ問題なのね。面白そう。
 ちょっと自力で解いてみる。イラストどん!

イラスト

 問いの内容は、どこから出発してもいいから、七つの橋全部を一回ずつ渡って同じ場所に返ってくること

 私がこの問題で最初に注目するのは「どこから出発してもいい」ということと「同じ場所に返ってこなくてはならない」ということ。つまり、同じ橋は二回渡れないから、帰ってくるためには行きの橋と帰りの橋がないといけない。つまり繋がっている橋の個数が偶数の場所でないと、問題の性質上絶対に返ってこれないのだ。だから、出発地点は偶数個の橋が架かっている場所になるはず。

 あれ、この時点で回答なくない? 橋の個数が偶数の場所が存在しない。五個、三個、三個、三個じゃん。うーん? そんな簡単なわけなくない?

 あれ……それなら「その場所の繋がっている橋の本数が偶数でないと返ってこれない」という命題がそもそも正しいかどうか確かめないといけないのか。

 証明は難しいけど、反証明なら簡単。ひとつでも例外を見つければそれでいいからね。ということでちょっと考えてみよう。

イラスト2

 んー……いや無理でしょ。同じ橋使っちゃいけないんだから、奇数個しか橋がないなら、どう考えても行ったきりになってしまう。橋が一本しかないのに戻ってくることは不可能だし、橋が三本でも無理、五本でも、七本でも、結局は同じこと。橋を渡らずに同じ場所に戻ってくることが不可能である以上、やはり橋の本数が偶数本出ない限り、絶対に戻ってこれない。
 私こういうの数式で証明するやり方わかんないけど、この方針で「無理」っていうこと証明できないのかな……
 とりあえず答えを見ちゃおう。

 だいたい合ってて草。え、こんな簡単でいいのこの問題。しょうもな! しょうもなすぎない?
(補足。詳しくは「同じ地点に返ってくるためには、ひとつの場所から出ている橋が全て偶数でなくてはならない」とのこと。それだけじゃなくて、全部の橋をただ渡るだけの場合でも、奇数の本数の橋が出ている場所は二本の場合しか可能じゃない。そして、その二本は出発地点と最終地点に限定される。言われてみりゃあそりゃそうやな)

 まぁいいや。どうでもいー。

 と言いつつ、色々調べてみたけど……数学の話になると途端にやる気が失せる。私なんで数学嫌いになっちゃったんだろう。昔は結構好きだったんだけどな。
 なんか「公式覚えろ」「この解き方でやれ。その方が速いから」とか言われるようになってからだろうなぁ。頭自体は数学向きだと思うんだけどね。時間制限内に解こうとするよりゆっくり楽しく難しい問題に取り組む方が私は好きだった。
 うん。でもさ、ゆっくり楽しく難しい問題に取り組んでもさ、結局最終的にあるのは空しさなんだよ。それに私は自分より数学のできる人が身近にいたから、自分がどれだけ数学に熱中しても数学者としてやっていけないことだけは小さいころから分かってて、なんだか数学をやること自体が無駄に思えてしまったのかもな。

 数学を難しいとも苦手だとも思ったことはないし、ちょっと勉強すれば解けるようになるのは分かってる。だって規則に従って考えて、規則に従って答えを出せばいいだけだから。大学からの数学のことは知らないけど、高校の間はそうだって知ってる。なんだか、そういう勉強に時間をかけることに吐き気がするんだ。

 あとこの問題に関連して補足に書いたような「条件まで完全に示す」っていうことを思い付きはするんだけど、実際にやろうと思う前に「めんどくさいからしない」になっちゃうから、そういう点ではあまり数学的センスないんだろうな……なんかもう「問題に答えが出たらそれでいいや」ってなっちゃう。「明らかにしたい!」っていう気持ちがあんまりない。終わってんな私……やっぱり学者にはなれんわ。

痛税感

 痛税感。重税っていうのはさ、一般庶民にとってはただただ苦しいよね。よく学校の授業でも「税金はみんなのために払ってるもので、私たちの生活にとても役立っているんです」って習うから、なんていうか「税金を払うのは善いことだ」っていうのが現代の日本人の一般的な考えだよね。
 んでも「税金の使われ方がおかしい。減らせ! 生活が苦しい! 血税だぞ!」みたいに叫び散らかしている人がいるから、まぁ何というか、税の問題って言うのはいろいろと難しいところがあると思う。
 そもそも金の仕組み自体がちゃんと理解できてないと、税の仕組みも分からない。そして金の仕組みっていうのは、普通に生きていて金を使ったときに感じる「実感としての金」とは全然違っていて、何というか「金についての政策」っていうのは、素人や半端な知識の人には全然理解できないし、めちゃくちゃやっているように見えがち。
 しかもそれだけじゃなくて、お金をはじめとした、人間が関わるもの、幻想の産物、共通認識の産物っていうのは、人間自身がそれに対してどのような感覚で接しているかっていうことで、それ自体の特徴や動き方が大きく変化しちゃうものだから、仮想通貨とか、インターネットビジネスとか、いろいろとこれまでなかった人とものの動き、価値の動きが産まれてきてしまっているから、この先どのように扱うべきか臨機応変に対応していかなきゃいけないんだよね。税金って、めちゃくちゃ難しいと思う。扱う側からすると、ね。

 でも徴収される側からすれば、ただただ痛いだけなんだよね。だって自分の手元に入ってくるはずの生活の糧であるお金が、一定割合で強引に持ってかれるんだもんね。その人からすれば。手続きもめんどくさいだろうし、その金がどう使われているのかもわかりづらい。というか、実のところ、「どう使われるべきか」ということもよく分かっていないと思う。政治に対する関心も知識もないだろうから。勉強する余裕もなければ、勉強したからといって、それで何かを変えられるようになるわけじゃないっていう実感もあるんだろうね。うーん。痛税感、なかなか難しい感覚ですねぇ。

 私自身はそもそも親の金で生活しているし、この先もそうする予定だから、そんなにたくさんは税金を払うことはないだろうし、そもそもあまり物欲がないから、痛税感っていうものを感じることはあまりないと思う。
 でも色んな人が通税感に堪えて税金を払ってくれてるおかげで、図書館に行けばただで素晴らしい本を読むことができるって考えると、なんていうか、皆さまありがとー! って感じ。
 難しいよね、こういうの。昔は私もそういう部分に負い目を感じてて「私も社会貢献しないと」みたいにプレッシャーを感じてたんだけど、それを感じたところで実際に私が社会に貢献できるようにはならなかったから、やめた。私、お金がどれだけ社会を豊かにしているかは理解しているけど、私自身にたくさんのお金を動かす能力がないということは常々感じているし、そもそも個人的に、生活さえまともにできるなら、お金はあんまりいらないと思ってるから、なんていうかね、働く理由がないし、親が払っている以上に税を払う必要はないかなぁと思ってる。まぁ、意図せず私がお金持ちになるようなことがあれば……まぁその場合でも、税金にするより、寄付したり投資したりするだろうな。実際、寄付は投資の場合でも、その寄付先や投資先がそのお金を使うときに必ず何割かは税金として持ってかれるから、間接的に税金を払っていることになるし、なんつーかね。今この時代の税制度って、基本的にお金を受け取ったり送ったりするだけで何割か必ず税金になるから、個人的に何か多めに払おうとか、貢献しようとか、そういうことを考えるのってあんまり意味ないんじゃないかな。
 税制って、人々の義務感や善意によって成り立っているものじゃなくて、どちらかっていうと人の欲望を利用して成り立っているものだから、お金に関係する欲望が薄い私が結果的にあまり税金を払えないのって、なんていうか、制度上必然的な気がするんだよね。仕方なくない? 私は仕方ないと思う。

 だからつまり通税感が大きいっていうのは、それだけお金に対する執着が強いってことなんじゃないかな? もちろん、生活が厳しいと、お金にも厳しくならないとやっていけないから仕方ないと思うけどさ。
 なんか、みんながあんまりお金を気にせず生活できるような世の中にさっさとなればいいのになぁと思う。何百年後かなぁ。まぁ私には関係がない話だ。だって私の努力でどうこうできる問題じゃないから。考えはするけどね。発言も、機会があればするけどね。

 なんかくだらね。豊かさとお金の話をすると憂鬱にしかならんわ。捨てたはずの罪悪感も若干湧いてくるし、なんか苛立つ。そんなん私にどうこうできる問題じゃないじゃん。はーあ……文句言ったって仕方ないし、現状の人々の貧しさに云々言ったって仕方ないし。
 そもそもみんな強欲なんだよ。私のことをさ「生活に困ったことがないからそんなことを言うんだ」って責める人もいるかもしれないけど、多分そういう人たちよりも、私の方が生きることに関してコスト自体は全然かかってないんだよね。いやまぁ、その話をしても仕方ないか。私も結構贅沢してるからなぁ。贅沢って何を言うのか分からないけど。私という人間が生きるために使っている金のうちで一番かかっているのは多分食費。食費以上の出費は多分……あぁ入院費くらいかな。入院費はかなり高かった。お父さんにいくらかかったか聞いて「国民皆保険制度って偉大だなぁ」って思ったほど。
 うーん。やっぱり私、結構国と税金に助けられてるから、何とかしたいなぁとは思うんだけどね。でもそういう動機で働くのって、やっぱり違うと思う。

 めんどくさい。社会生活について考えると、ほんとに吐き気がしてくる。重荷なんだよな。自分が真面目すぎるのは分かってるけどさ、でもそういう性分なんだから仕方ないじゃん。なんか腹立ってくる。結局は自分のことしか考えてないんだけど、でも自分のできる範囲で何かしたいと思わずにいられないんだよ。
 あー腹立つ。私が働いたって大した額にはならないし、そもそも税制とか労働の仕組みとかを社会的な観点で見るならば、個人が個人の善良な意志で無理して働くのではなくて、働くこと自体にその個人にとって魅力ともいえる条件というか、その人間が自然に働きたいと思えるような状況を作り出すこと自体が必要なんじゃないの? どう考えたってさ、自分自身になんの見返りもないのに社会から与えられた恩恵に対して恩返しするために働くのって、いろいろと無理がある。頭では理解できても、体が納得してくれない。
 この恩恵だって、自分で選んでそうしてもらったんじゃなくて、仕組み上勝手にそうなってるわけだし、そうした方が、社会という全体にとって好都合であるからそういう風にしただけなんだから、この社会が『私個人のために』何か恩恵を施してくれたわけじゃないんだよね。あくまで『万人による万人のための』恩恵なのであって、私個人がそれに対して何か特別な責任感や恩を感じる必要はないんじゃないの?
 あーあ。自己正当化でしかないわそんなの。ほんまにだるい。


 なーにが「社会に貢献」じゃ。私は社会のために産まれたわけじゃないのに、私の判断能力がまだ育っていない子供のうちに、社会が勝手に私に金を貸して、その利息分を大人になってから労働という形で取り立てようとして来てるように思えてならない。「良心の呵責」とか「社会的な義務」という優れた人間に備わった機能を利用してさ、私に「返せ! 返せ!」って言ってきているように思えてならないよ。
 そんなん知らんわ! 私だって好きでこの国に産まれたわけじゃないし、好きでこの国で豊かに暮らし続けているわけじゃない。それは単なる慣性と惰性だし、それに責任を求められたって、無理なもんは無理だよ。

 あーめっちゃ腹立つ! イライラが止まらん! 
 私、社会とか大っ嫌いだわ。助けられているのは知ってるし、なくなった方がいいとも思わないけどさ、でもそれが私を苛立たせ、健康を害するというのは事実だから、やっぱり憎しみも感じちゃうよね。
 それを感じずにいられないのは私だけじゃないと思うし。何というか、押しつけがましいよ。いろいろとさ。

終わりに

 こんな悪い気分で文章終わるのは不本意なんだけど、ランダムで出した三つ終わったからもういいよね。このやり方あんまりよくないわ。少年十字軍はほとんど何も語れなかったし、橋の問題はなんか、後で見返したら、カンニングして不正に自分賢いアピールしてるやつみたいに見えちゃうし。(もう何でもええわ……)(正直、出てきた図自体がとっても分かりやすかったし、ヒントになるような文章も読んじゃってたから、カンニングはしてないけど、なんつーか、なんかもやもやする。自分が見たサイトを張り付ければ弁明になるんだろうけど、無許可でリンク張るのもなんかなぁって感じでもあるし……)
 最後の話もしょうもないしな。結局私がいかに社会というものの縛りに対して吐き気を感じているかをいつも通り表明しただけになってしまった。にゃあ。

 なんか、こんなこと思いたくないけれど、これって無駄話なのでは? やばい。吐きそう。

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