意思と欲望は男性的であり、心と感情は女性的である

 意思と欲望は男性的であり、心と感情は女性的である。

 精神はそれらの混合物であり、心と感情が、意志や欲望よりも優位にはたらいている精神は、女性的な精神であり、逆に意志と欲望が、心や感情よりも優位にはたらいている精神は、男性的である。

 これはあくまで私自身のイメージでしかないが、実際にも、男性は男性的な精神を持っていることが多いし、女性は女性的な精神を持っていることが多い、と私は思っている。(ただ、男性は男性的であるべきだとか、女性は女性的であるべきだとか、そういうことが言いたいわけではないということは分かっておいてほしい)

 女性は基本的に、意志や欲望というものを心のどこかで憎んでいる部分がある。意志や欲望のままに動くこと、というのを直感的に「悪」だと捉える。実際、意志や欲望というのは基本的に、他と自分自身の感情や心をひどく害することが多い。たとえば私たちが食欲のままに、好きなものを好きなだけ食べたとすると、ほぼ確実に太る。特殊な体質でないかぎりは、私たちは自制することによってしか、美しさを保てない。そういうことを、本能的に理解しているから、意志や欲望というものを、心や感情の下位に置いていることが多い。
 対して男性は、時に「欲望のままに生きること」を肯定する傾向にある。そういう人は「より多くの欲望を満たすために、自制する」のである。女性的な精神には理解できないことかもしれないが、男性的な精神は「酷い目に遭いたくないから我慢する」のではなく「より多くの欲望を叶えるために我慢する」のである。
 彼らは逆に、感情や心が、欲望を満たすのに邪魔になることが多いのを知っているから、それを敵視していることが多い。


 さて、フェミニズムというものについて語ろうと思う。私はこれを「男性的欲望への敵意」であると思っている。男性は基本的に女性よりも強い欲求と意志を持っているため、支配できるものは支配しようと欲する。大して女性的な女性は、自分の心や感情を守ることを優先したいが、それを守るということ自体が心と感情のはたらきではなく、意志や欲望を必要とするはたらきであるから、女性はそれまで男性に対して我慢し続けるしかなかった。つまり、女性にはそれまで反抗する力がなかったのだ。
 時代が進むにつれ、女性ではなく男性が、先に変化した。つまり、欲望を敵視する男性が増え、しかも、力を持ち始めた。彼らは男性的な精神ではあったが、欲望より意志の力がはるかに強く、意志の下に心や感情が来て、そのはるか下に欲望が来る、という精神構造を持っていた。
 本来、欲望が意志を産み出し、感情が心を産み出すものであったにもかかわらず、意志を産み出し終えた欲望は用済みとして意志から抑圧され、代わりに心や感情が意志に近いほどまでに高められた。そのような精神構造にあった男性にとって、欲望の小さい女性は支配すべき所有物や、欲望を満たすための道具ではなく、守るべき宝物に変化した。女性に、一定の権利を認めようと考えるようになった。(注目しておきたいのは、あくまで彼らは「男性は女性に対して優位である」という思想は捨てていなかったことだ。彼らは『意志』というものが男性的であることを理解していたし、男性に比べて女性が『意志』というものを持っていることがあまりに珍しいことにも気づいていた)
 そして時代が進み、女性に、自分の意見を言うことが許されるようになると、女性は最初に、優れた男性たちと結託して、男性の欲望の自由を禁じた。腕力で敵わない女性が、男性に対し、腕力による支配を禁じるべき、ということを主張した。強姦、暴力の禁止。それは、すでに腕力以外の方法で多くの女性を確保できている優れた男性にとっては有利な規則であり、逆に力や欲望本位で生きることしかできない原始的な男性的男性にとっては不利な規則であった。当然、そうして男性的な男性は淘汰され、その性質は変化していく。欲望というものを抑えられる男性しか、子孫を残せなくなる。
 男性が欲望を抑えられるようになった、とは言っても、意志が欲望よりも強くなっている男性は少ないため、相変わらず男性は「より多くの欲望を満たすために、欲望を我慢する」あるいは「欲望が満たせなくなると困るので、我慢する」という状態だ。女性にとって、これは気に入らない。フェミニストにとって、女性には存在しないあらゆる男性的な欲望は、本能的に不愉快なものなのだ。

 男性的なフェミニズムと、女性的なフェミニズムは似て非なるものである。前者は「女性の自由を守る、あるいは作り出す」という理念を持っており、後者は逆に「女性の自由を守るために、男性の自由を制限する」という理念を持っている。女性は、自分たちの自由というものが常に男性によって抑圧され続けていることを知っているし、その原因に、男性の自由、というものがあることを知っている。ゆえに、自分たちが自由になるためには、男性が自分たちと同じくらい不自由になるしかない、と考えているわけだ。そしてそれは、厄介なことに、実現しつつある。それによって女性が自由になっているわけではないのに!
 逆に男性的なフェミニズムの方は、女性に「戦う権利を与える」ということをしようとする。つまり、女性に対して男性と同じものを要求するのだ。つまるところ、意志と欲望の自由を、女性に認めようとする。女性が、意志と欲望を自由に使って、男性と同じ土俵で戦えるよう環境を整えようとする。
 男性の肉体の中に、女性的な精神が宿ることは、古来より珍しくなかった。逆に、女性の肉体の中に男性的な精神が宿ることも、それ自体は昔からよくあったことであり、今もそうである。つまり、女性が男性と同じ土俵で戦える環境がある場合、優れた肉体を持つ少数の女性にとって、非常にありがたいことである。その女性は男性と同様に、意志と欲望を使って、何らかの成果をあげるために他者を犠牲にすることができるので、男性的なフェミニズムの恩恵にあずかっている立場にある。しかし大半の女性は、腕力で勝てないのと同様に、意志や欲望においても男性には敵わない。通常、同じ目標があり、それを対等に競う場合、より多くのものを犠牲にした方が勝つ。女性には通常、そういう力が男性ほど秀でてはいない。協調したり、諦めたり、そういう方向に逃げたくなる性質を持っている。
 男性にもそういう傾向が強くなっている現代では、本当にそういう点での男性と女性の差は縮まりつつあるが、それは先ほど述べた女性的なフェミニズムの結果である。女性が男性を抑圧した結果である。男性が、女性と同じくらい逃げやすくなったため、女性と男性の結果にそれほど差が出なくなりつつあるのである。

 本来明らかに、男性は女性より強い体を持っているし、同じ仕事をさせれば男性の方が効率よく、長時間働けるのは言うまでもないことだ。そしてそういう肉体的(頭脳も肉体の内である)に消耗する労働の場で、女性が戦う自由を与えられたところで、一部の労働が向いている極度に体の強い女性以外は、すぐに諦めて劣等感に打ちひしがれる。同時に、女性に同情した男性たちや、そもそも女性的な精神を持った男性たちも、女性と同じように勝負から降りる。

 これはあくまで私の中のイメージだ。これに正当性があると思うかどうかは、読んだその人自身が考えればいい。私の意見だって、今後変わってくることだろう。この意見が、あまりに根拠の乏しいものであることを私は自覚しているし、それほど大切に抱えているわけでもない。私の感覚と理性が、今言えることを言っただけだ。

 あとこれはあくまで「現状の認識」だから「ゆえにこうすべき」というところまで私は思考を進めていない。

 ただ、今言った感覚に従えば、おそらく私の精神自体は、どちらかと言えば男性的であると思う。
 私は、通常の女性よりもさらに欲望が小さい。そして、心や感情が、あまりにも大きすぎる。にもかかわらず、私の意思は、通常の男性よりもはるかに大きい。アンバランス過ぎて、男性的とか女性的とか、うまく分類できない。

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