認知バイアスに対する不安

 ずっと疑ってる。物心ついたときからずっと。

「私は自分の目で見たものしか信じない」
 ということを言う人は、現代でも結構多い。
 しかし私は、それに賛成しない。人から聞いた話や理屈で導き出した答えを信じる人は「そりゃそうだ」と思うかもしれないが、それも違うのだ。
 私はこう思って生きている。
「私は自分の目で見たものすら信じない」

 もし自分の目で見たものや五感で感じたものをしっかり覚えておく能力があるならば、それらが実際の姿と違ったものを自分に感じさせることがよくあることは、自明である。私たち人間は、生きて物事を利用する分には賢いが、物事を偏りなく考えたり見たりすることに関しては、頭も目も悪い。

「私は勘違いしているのではないか」
 自分が持論に確信を持てば持つほどに、私は不安を抱き始める。
「何か致命的な誤解をしているのではないか」
 他人を評価するときでさえ、その疑いが頭を離れない。

 私の認知傾向は、明らかに大多数とはかけ離れているとは思うのだけれど、それ自体も疑ってしまう。
 つまりそれは、「私が自分は特別でありたい」と思っているから、勝手にそう判断しているだけであって、実際のところ、私は他の人たちと同じくらいバイアスのかかった認知を行っているのではないか? あるいはそもそも、認知傾向に対する認知自体が、誤っている可能性は? 私自身が誤解している可能性もあれば、現代で広く知られている学説が、実際の学説とかけ離れている可能性もあるし、実際の学説自体が現実にそぐわない可能性もある。
 私は自分が何か学問的な意味で偏った認知をしがちであるとは思えないのだが、その「思えない」というところにバイアスの匂いがする。
 でもバイアスというのは自分自身で気づくことが難しいという性質がある以上、私が「なさそうだ」と思えば思うほどに、その可能性を匂わせる結果になってしまう。

 思い込みを防ぐためには「決定しないこと」「分からないという立場を取ること」が有効だと私は思うのだが、それ自体も自分自身で考えたことである以上、認知の偏りの結果なのではないかと疑ってしまう。

 認知の偏り。他人の認知の偏りを見ると、私自身の過去を振り返って、それに合致する遠い自分の過去が見つかると、私は安心する。つまりそれは、すでに克服したものであり、今の私にはほんの少ししか残っていないはずのものになるはずだから。
 小学生低学年のころを思い出すことによって、私は自分が物事を疑っていなかった時代があることを信じることができるし、それを信じることができるから、今の自分を疑いすぎずに済む。
 私は自分の認知を修正することが好きだし、結論を置かずに考え始めるのが得意だ。周りの人間がそれができているかどうかは、正直分からない。「できていなさそうに見える」が、それは私の勘違いである可能性だって少なくない。もちろん、現実で人と接するときは、そちら側にベットしているが。(相手は自分ほど理解力は高くないし、頭の回転も遅いのだと意識して話した方が、伝わる場合が多い)

 しかしある日突然、こう言われるのではないかという不安が頭をよぎることはある。
「お前はいつも面白かったよ。こっちはみんな知らないふりをしてるのに、お前は俺たちが何にも知らないと思って、自信満々に聞きかじった知識を宣っていたんだから。しかも俺たちがわざとらしく褒めたら、お前は『疑わないのが礼儀』だとか言って、分かりやすく喜ぶんだから! お前が思っているほど俺たちはみんな頭が悪くないし、俺たちがお前の話を理解できないそぶりを見せるのは、お前をからかって楽しんでいたからなんだ。お前はこの世界で一番頭が悪くて、お前以外の人間はみんなそんなお前に気遣って、知らないふりをしてやっていただけなんだ!」
 もしかしたら、それはひとつの認知の傾向なのかもしれない。自分にとって都合の悪い現実を、無理やりにでも予想するという性質。論理的に可能であるならば、それを無視せず、直視し、検討せずにいられない、そういう認知の傾向が、私にはあるのかもしれない。
 被害妄想的だし、全くありえないというわけではないが、あまりにセンスのない考えだ。それを支持するような事実はほとんど見当たらないし(しかし厄介なことに「お前に気づかれないように、そういう事実は俺たちが隠していたんだ」と、この妄想上のクソは私に語る)実際に身近な人と関わってると……そうだね、そんな難しい嘘をつき続けられるほど複雑な生き方をしていないように見える。というか、さっき言ったことが真であるならば、この人類の歴史も含めたすべての現実が、私のために用意されていなくてはならないことになる。歴史上に描かれた人生の愚かさ全てが、私を誤解させるために用意されたものでなくてはならなくなるのだから。やはり、極めてナンセンスだ。ほとんど独我論のようになるじゃないか!

 ともあれ私は、自分がどのようなバイアスをかけて世界を見ているのか自覚したいのだけれど、それが分からない。誰かが教えてくれたらいいのだけれど、私の目には、私以上に矛盾や誤解に敏感な人間は、ほとんどいないような気がする。科学的手法に基づいている人たちも、その手法自体が誤りを含んでいる可能性や、そもそも自分の認識や、その分野における絶対的な常識のようなものを疑っていることは、滅多にないように見える。(それが私の過大評価でないのならば、おそらくそれは、その分野ではそのように言わなければ取り合ってもらえないから「疑っていないふりをしている」のではないかと思っている。実際、私と話すときに自分の分野における疑問や矛盾の可能性のある点を話してくれた人は数人いたし……)

 それに、私という人間が他者のバイアスを指摘する前に自分のバイアスを疑ってしまう人間である以上、私のそれを指摘できるほどその人自身を疑うことのできる人は、やはり私と同じように、自分自身の認知への疑いによって、私のそれを指摘することは難しくなるのではないかと思う。

 私は他者に、私に何か認知の偏りの傾向が少しでもあると思ったら、教えてほしいと思っている。
 「あまり見つからなかった」という意見は嬉しいけれど、きっとそれはまだ自分もその人も気づいていない認知的な偏りをさらに強固にさせかねないから、実のところ素直に受け取ることができない意見なのだ。
 他者の同意ほど、自分の意見に固執する要因になりかねないものはない。
 「あの人もこの人も私に同意してくれた。だから私は正しい」という認知の傾向は、極めて危険であり、これによって引き起こされた悲劇は数知れない以上、何よりも警戒すべきである。だからこそ私は、それが明らかに的外れであったとしても「ここが間違っているのではないか」という意見を重く扱う。

 私は私への、悪意のない批判を求めている。

(認知バイアスの強くかかった人を悪く言うのって、陸に上がったばかりの両生類が、まだ肺呼吸がうまくできない同胞を悪く言うのに似ている気がする)

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