思考を慣らす

 考え方を変える、というのは意識ひとつでどうにかなるものではない。実際生活の変化と、自分の中の内的な大きな動き、さらに外部からの質のいい刺激がなければ、考え方や、その枠組みは変わらない。

 私の生活は変わっていない。でも、私の思考の枠組みが変化しているのを感じている。自分の中のもっとも深い部分、もっとも根本的な部分が変化しているのを感じている。

 それは何か。私は「人間の通常の精神」の重力の外側に向かって動いているのだ。

 あらゆる心理的傾向には重力が存在する。私たちが幼少期に信じていたものは、大人になっても小さな重力を持って私たちを引っ張る。
 そして大人になってから信じたものは、さらに大きな重力を持って私たちの人生を縛り付ける。
 なぜか。それが「人間の生き方」だからだ。人は、自分が生きやすい生き方を見つけたら、それに固執する生き物であり、その「生きやすい生き方」というのは、自分の実際生活であるとともに、自分自身の中でもっとも頻繁に繰り返される「格言」でもある。

 人は誰しも、己の内に格言を持っている。それはたいてい「格言」という名で呼ばれるほど高度なものではない。
 「あいつが嫌い」とか「なんかむかつく」とか「馬鹿にしやがって」とか、そういうのが人間の精神の中でもっとも普遍的かつ低級な格言だ。心の中で繰り返された言葉は血肉になり、私たちの表情や行動に影響を及ぼす。

 この現代日本では高度な教育がほぼすべての人間に与えられ、それによって私たちは幼少期のうちに「正常で善良な日本国民」というひとつの強い重力をもった理念を己の内で育てていく。
 あるいは「立派な大人」でもいいし「モテる男、モテる女」でもいい。
 いずれにしろそれは、誰かから教えられたものであり「通常の精神」である。

 そのような「通常の精神外」にあるものの代表は「専門的精神」だが、それも結局は「通常の精神」と性質を同じくしている。専門的精神は、それがその人間の実際生活、つまり仕事に根差した精神であるから、その人間の必要性に応じて育まれる、固定化された精神である。それは通常の精神同様に非常に強い重力を持ち、一度それを自分の体になじませてしまえば、生涯その重力に引っ張られ続ける。
 「あれしてこれして」という習性が、関係のない場面でも衝動として内的に生じてくるのである。

 では今、私の身に、私の心に起こっていることは何か。あらゆる重力の外側に向かっているのだ。自分の精神が、新しいよりどころを自ら産み出し、その重力を育てているのだ。

 しかもそれを私を「新しい私の重力」だとは思っていない。それは単なる「無数にある解釈(重力)のひとつ」と理解したうえで、一時的にその重力の中で過ごしている。

 私のほかに、誰もいない重力の中で、私はその物理法則を眺めている。重力の強さが異なれば、当然モノの動きも、その見え方も異なる。
 宇宙を支配する万有引力のような物理法則のように、あらゆる重力を内に含んだ統一の規則が存在するが、しかし私はその統一規則に一切興味を持たない。貧しいからだ。退屈だからだ。宇宙を支配する「一般物理法則」は一切の重力を持たないから、私はその中で生きるよりは、あるひとつの重力の中でものを見るのが好きなのだ。
 それも、多様な重力を見たい。それを愛したいのだ。


 私は今、どのような重力を試しているか。

「人間を動物として見る」
 ということをやってみている。

 勘違いしないでほしいのだが、多くの人間はこのような思考の変化を「たとえば」とか「もしも」とかそういうレベルで捉えがちであるが、重力の内側にいるということは「それ以外ありえない」と思い、それを前提において語り始めることをいうのだ。
 神を信じている人が、神の重力に縛られているように、私はこの人間というものが、何の精神も持たない、単なる動物として存在しているという重力に、自分の精神を慣らしている。

 しかも「そう考えているこの『自分』は、人間という動物を離れつつある存在として見做す」という、曲芸のような前提を内に含んだ、人間動物論の中で私は生活しようとしている。


 人間が動物であったとしたら、どのようなものがその権利を剥奪され、どのようなものが新しい権利を獲得するだろうか。

 人間が動物であるとしたら、動物に許されることは全て人間にも許される。動物にとって得であることや合理的であることは、人間にとっても得であったり合理的であったりすることが考慮される。
 人間が動物であるとしたら、人間が作り出した全ては、人間という動物の習性の結果となる。そこには一切の意志なるものがなく、自然が生み出した偶然と必然の混合物に、人間は己の習性の結果として、色々な名をつけて聖なるものとして崇めたり、悪しきものとして蔑んだりした。

 それがたったひとつの真実であり、私たち自身が、そのような世界において、自分もまたひとつの動物として生きてもいいのだとしたら? もし私たちが、私たちをひとつの「新しい動物」として、つまり人間を超えた「新しい動物」として、生きることが許されていたとしたら?

 もし人間がこれまで創り出してきた全ての「重力」が、架空のものであり、実際に存在するのは、単に「その動物にとって都合のいい重力」でしかないとしたら? もしそうであるならば「これまでの人間」を離れつつある私たちは、私たちは私たちにとって都合のいい「重力」を作り出す権利を、自由を、有しているのではあるまいか?

 しかもこの、自分たちの生態に合わせて、世界の環境を変えるという特殊な能力を有したこの「人間」という種から生まれた私たちは、もはや……私たちの「生態」に合わせて、この「人間という種」の生態すら、変えることができてしまうのではないか?
 人間が他の野生動物たちを、自分たちの生態に合わせて作り替え、「家畜」という名の新しい生物種を作り出したように、私たちは、人間であるにしろ人間でないにしろ、他の人間を自分向けに作り替え、そして作り替えられた者たちが、彼ら自身をそうと気づかないうちに愛させることすら可能なのではないか?

 もしそれが可能であるならば、もうすでにそうなっているのではないか?

 もし私たちが一個の動物に過ぎないのだとすれば、私たちが追求すべきは、自由という名の無重力ではなく、むしろ、新しく心地よい重力、あるいは、あらゆる重力への愛好心なのではあるまいか?

 私は私を縛っていた重力を「見て、感じる」ことができている。
 重力とは、その重力しか知らないと、自分がそれに縛られているという自覚を持つことができない。
 偏見は、重力というより鎖であり、重力の内部におけるより強い拘束具でしかない。たとえ偏見を偏見と自覚しても、結局その偏見を産んだ土壌たる「精神の重力」から逃れたことにはならないし、それから逃れたと感じること自体が、その人間が「他の重力の中で生きたことのない」証拠となる。

 他の重力を見て、己が重力に縛られていることを自覚する人間もいるかもしれない。でも、結局体で感じなかったことは、自ら信じることはできない。
 他の重力があることを知っても、結局同じ重力の中で生活し続けていたのならば、その人間はその重力空間における物理学しか取り扱えない。

 つまり、かつて自分が縛られていた重力のことを「他の重力」として見つめることができるようになって初めて、私たちは「重力から逃れた」ことを自覚するのだ。
 私が、過去の私の思考傾向、それも、もっぱら正当かつ合理的な思考の偏りを、今私が冷静に分析し、それを他の重力と比較することができるということが、私が重力の外側に向かっている証拠なのだ。

 だが当然のことながら、私はまだ重力から完全に逃れたわけではなく、ただそれが弱くなっていることを肌で感じている、程度である。
 だが、この推進力で十分大気圏を超えられることを私は体全体で認識している。
 もしかすると勘違いで、どこかで引き返すことになってしまうかもしれない。それでも構わない。私は今自分の精神に起きているこの体験を、非常に貴重で面白いものとして感じている。

 世界がより明るく、同時に暗くなっている。今まで自分の見ていた景色が全部ひっくり返って、ありふれた不愉快が、奇妙で興味深い地域的現象に変わっていく。

 人間が動物であるならば、人間の愚かさや矛盾、あらゆる徳の欠如、その不明瞭さ、全てを壊そうとする破壊衝動も、全部簡単に説明できるし、許すこともできる。
 人間が動物であるならば、彼らの狭量さも、自分と異なるものを理解せず、許すこともせず、反射的に抑圧しようとする習性も、彼ら自身が生き残るために、必要な策であったことが理解できる。もちろんそれは、うまくいかなかったようだが。
 人間が動物であるならば、どうしてこんなにも賢い個体と愚かな個体の間に差ができてしまうのかも、もはや何の抵抗もなく、それが自然なことであると認めることができる。
 人間が動物であるならば、どうしてこんなにも病的な個体や、病的な集団、病的なことを正常だと言い張るものたちが後を絶たないのかも、無理なく説明できる。もはやそうでない方が、不自然だということさえできてしまう。
 人間が動物であるならば、この動物は他の動物よりもはるかに複雑であり、ある種特別な動物である。
 少なくとも人間自身や、今後人間から派生的に生じてくる新しい生物にとっては、そうである。
 世界で最初の多細胞生物。世界で最初の動物。脊椎動物。陸生生物。

 そういった「特別な動物」のひとつに、人類という種は、当然のように数えられることだろう。


 もはや私たち人類は、科学的な世界観の中にあって、神秘や未来を思い描くことができる。
 私たちはもはや、自分たちの精神的衝動が、肉体的欲望に反しない範囲に押しとどめるすべを身に着け、それによって、精神の世界に無限の広がりと、絶え間ない現実の認識が可能になった。

 つまり私たちの生活に基づかない、都合の悪い認識を、それを真実として見たうえで、私たち自身の肉体、つまり生物、動物としての有利や不利を、率直に認め、それに根差した判断と選択を行うことができる。
 するとどういうことが起きるか?

 これまでそうであったように、人間が自分たちをうまくコントロールするために、自らに嘘を信じさせたり、誰も逃れられないような精神的重力を作りだしたり、そういう風にして社会生活を維持する必要がなくなるのだ。
 つまり、私たちはもう、嘘を信じなくていいのだ! 仕方ないと、諦めなくていいのだ! 私たちは私たちの欲望を全て、自分たちにあるものとして受け入れ、それを愛し、楽しむことが許されているのだ! なぜか。それを安全に、自分たちの生活を害さない方法で満たすすべを自ら考えだし、それを実行に移せるほどに、賢くなったからだ!

 私たちはもはや、狡猾である必要がなくなったのだ。狡猾であるのは、狡猾でなくては欲望が満たせなかったからなのだ。自分の欲望を隠さなくては、その欲望を満たすことができなかったからなのだ。

 私たちはもはや、自分たちが望むものを望んでいい。愛したいものを愛してもいい。それを愛した結果破滅するのは、自らの精神をしっかり肉体に縛り付けられていない者だけだ。彼らはどんどんこの先滅んでいく。生き残り、繁栄するのは、必然的に、私たち呵責ない者たちなのだ。

 私の新しい重力は、私にそんな希望を語る。
 私に対して「真実であれ。科学的であれ」と語る。
 「非人間的に認識し、人間的に行動せよ」と語る。

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