カメラひとつで美しい景色は台無しになる

 綺麗な景色を見つけるたびにカメラを取り出す人に、心の底から問い詰めたいことがひとつある。
「あなたの撮った写真に映るその景色と、今私たちの目の前にあるこの景色が、同じものに見えるのか?」

 私の中の写真好きな彼女は、こう答える。
「同じだとは思わないよ。でも、この写真を見るたびに、この感動を思い出せたら素敵だと思わない?」
「本気でそんなことを言っているなら、私はもう何も言いたくなくなる。目の前に感動があるのに、将来の退屈している自分のために、その感動を台無しにするの?」
「別に写真撮ったっていいじゃん。それでこの景色が綺麗じゃなくなるわけじゃないんだから」
「いいや。あなたが『写真撮らないと』と思った瞬間に、それだけであなたの目に映る世界の解像度は、写真の解像度にまで落ちるよ。この世界には、動画や写真には決して保存できないものが無数にあるのに、それを感じ取ることを放棄することになる。もしその自覚がないなら……」
 それで、ぽかんと口を開けている彼女を見て、私は口をつぐむのだ。彼女は、人生の味を知らないのだ。

 本当の意味で必死になり、その瞬間に己の全運命を捧げた時、私たちはその光景が記録されることなんて望まない。それはもうすでに、永遠の像を持ってそこにある。忘れ去ってしまうものは、忘れ去ってしまうべき事柄であり、それを無理やり写真なんかに保存して、それを自分の心の中で再上映したって、再上映されたものは、単純化された過去の自分の肯定にしかならない。
 退屈で空しいことだとなぜ分からないのか。

 それを人と共有しようとするなんて、論外だ。人は目的を持たず他者の撮った写真を見るとき、その写真を撮った人間の気持ちなんて想像しないし、想像する価値もないと思っている。

 もし、写真というものが、それだけ強い思いを持って撮られたものばかりであるなら、私は写真の価値を認める。それはひとつの願いとして価値を持つから。
 撮るべきもの、伝えるべきものがある写真は、私だって好きだ。その写真を撮った人の精神性がにじんでくる写真は好きだ。

 だがそういう写真と、ただ何となく撮られた写真の差異を感じられない人間が、なんでもかんでも写真にして、目の前にある美しさを台無しにしていくさまを見るのは、本当にうんざりだ。

 心の底から楽しんでいる時、その楽しみを記録したいからと「みんなちょっとじっとしてて!」と叫び、楽しい瞬間を奪い取って、偽の笑顔を浮かべることを強要してくるあの連中が子供のころから大嫌いだった。

 写真の前で浮かべる笑顔と、ただ楽しいから浮かべる笑顔は、一目見て全く違うと分かる。それが分からない人間が、あまりにも多い時代だ。

 そのうち、カメラを向けられただけで楽しい気分になるような輩まで現れ始めるだろう。いやもう、そういう連中も少なくないのかもしれない。その楽しみは、あまりにも醜く低劣だ。


 写真に残すべきは、恐ろしい景色や忘れてはならない景色だと思う。それは楽しみのためではなく、思いや願いのためであるべきだと思う。自分の傷や後悔、あるいは意志、愛でもいい。そういうものを忘れないために撮る写真には、私も価値があると思う。撮った写真は少なければ少ないほど力を持つ。
 私もいつか記憶力が悪くなれば、そういうことも必要になるかもしれない。

 美しいものは、美しいままであってほしい。
 写真に映ったものは、自分が撮ったものでないのなら、それがどんなものでも心から感動するに値しない。目の前にない、美しいだけでしかないものは、どうあがいても他人事だからだ。私自身の心に触れないからだ。届かないからだ。

 自分自身の過去や体験を、他人事にしないこと。ただ思い出して楽しむだけのものにしないこと。
 それを自分の血肉とし、たとえそれを忘れても、そこで得たものが自分の中で動いていることを感じられること。

 私たちは、私たちが美しいと思った経験を、自分の中で再構築しなくてはならない。そうでなくては、全ては無意味に消えていくだけで終わってしまう。自分が存在している理由が分からなくなり、快楽だけを追い求めるようになる。

 快楽と欲望は似て非なるものだ。快楽は、私たちが欲望するために用意された「機能」でしかなく、私たち人間の生き方の本質は欲望の方にある。私たちの欲望は、私たちの意思が価値を認めたものに、より強い快楽を私たちに生じさせる。決して、私たちの快楽が、私たちを操っているのではない。私たちの意志が、価値が、私たちをそうさせているのだ。
 だから私たちは、なぜ私たちの意思がそれを望んでいるのか考え、それに同意しなくてはならない。
 私たちの「自分」と「意志」の進む道を、揃えてやらなくてはならない。実際、意志が主人であり、自分とはその奴隷ではなく、兵士なのだ。

 私たちの意志というのはあまり賢くないが、しかし兵士より多くのものが見えている。
 よい兵士は、主人の望むものを理解し、自分の頭で考えることができる。主人の望むものを叶える能力は、主人ではなく、私たちの方が秀でているのだ。そこに、自我のプライドがある。

 私は「私」に相応しい!
 私たちの空しい自我がそう叫んだ時、私たちは真に救われる。世界は美しくなる。あらゆる「モノ」を必要としなくなる。

 空虚な自我を求める人間は、その意志が空虚だからである。私たち、豊かな意志を持つ者は、当然、その豊かさを理解し、解釈し、利用し尽くせる自我を必要とする。
 必然的に、私という自我はそうであるしかないのだ。

 それぞれが、それぞれに相応しい自我を持つようになればいい。
 そして願わくば、その意志が可能な限り豊かなものにならんことを!

 自我と意志は並んで育っていく。それは、男と女の関係にもよく似ている。

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