寂しさでおかしくなってしまいそう

 ひとりきりのベッド。物音ひとつしない。眉間にしわが寄っていることに気が付き、指でほぐす。頭をがりがりと掻きたい衝動にかられるが、髪と頭皮を傷つけるから、指の腹で優しく抑えてマッサージをする。
 自分の頭の形を確かめる。少しだけ、頭頂部がとがっている。左後ろの方には、ぷっくりとした小さなできものがある。昔から大きさも変わらずずっとある。気にしても仕方ないし、別件でお医者にかかったとき、ついでに診てもらったことはあるが、お医者さんは多かれ少なかれ誰にでもあるから気にしなくていいよと言ってくれた。
 体を起こす。体は熱い。熱いのに寒い。誰かに抱きしめて欲しい。胃がぎゅっと痛む。いつもそうだ。私は、私の好きな人に抱きしめて欲しい。いやらしい意味ではなくて、そもそもいやらしいことなんて、一切想起する必要のないくらい清らかな、そういう抱擁が欲しかった。子供同士が抱き合う時のような、無邪気で、ただ寂しさと寒さを紛らすためだけの、そういう暖かい抱擁が欲しかった。

 自分の胸を触ってみる。どうして人は大人になってしまうのだろう。どうして人は、子供のころの無邪気さを失ってしまうのだろう。どうして人は……

 子供のころは、何も考えずただ毎日好きなことをして過ごしていた。好きな人に会えたら、それだけで飛び跳ねて喜んだ。相手が男の子だとか女の子だとか、全然気にせず、一緒にいて楽しい人のことが好きだった。私が抱きしめると、いつも向こうも抱きしめ返してくれた。照れ屋な人もいたけれど、そこには性的な感情みたいなものは少しもなかった。
 ただお互いのことが好きだった。それだけだった。私はそういう関係が好きだった。一緒にいられるというだけで満足できる関係が、私にとって最高の関係だった。

 いつからだろう。触れてはいけないことだったり、趣味の悪い楽しみだったり、そういうものが私と人との関係を歪にし始めたのは。

 あまりに多くのことを隠さなくてはならないようになった。何もかもを笑い飛ばすことができなくなった。
 ただ泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑うことが許されなくなった。怒ったり、悪口を言い合ったり、そういうことができなくなった。いつの間にか私は、自分が幸せでいられる時代がとうに過ぎ去ったことを受け入れていた。

 私より年上の人が、私より子供っぽく振舞って、それで幸せそうにしているのを見ていると、私はどうにも……彼女を憎々しく思う。私だって、そういう風に生きられるなら、そういう風に生きていたい。でもそんな言動をしたら、私の中に住んでいる色々な生き物が、私に噛みついて、私の心は絶え間なく血を流すだけだ。私はもう無邪気なままではいられない。色々な考えが頭をめぐり、それをやっていいのかどうか、いちいち立ち止まって考えている内に、何もできなくなってしまう。

 それほどまでに、傷ついてしまったのだろう。私の心は。私の人生は。

 ならばせめて、言葉の世界でだけは、私の語りたいことを語りたい。
 現実では、私が何を言っても人を傷つけてしまう。そもそも私の存在自体が、誰かを傷つけることがある。私は、誰かの負担でありたくはない。自分自身も、誰かを負担に思いたくなんてない。誰かを邪魔だなんて思いたくないし、誰かから邪魔だなんて思われていたくない。だから、私はひとりでいることにした。それを選んだ。

 だからせめて、不自由な私はせめて、言葉の世界では、精神の世界では、自由でありたい。
 友達がいない私は、友達に囲まれた世界を作り出して、その中で愛していることや信じていることを語り合っていたい。

 私はもう、色々なことに疲れたんだ。実際に自分の体を動かして何事かを為すには、私の体は弱すぎたし、強くしようと思うことすら、もう難しい。私は弱い人間であるし、弱い人間のままでいい。

 同情なんていらない。共感なんてしてほしくない。私にだってプライドはある。私は、ただ自分自身でありたい。


「どれほど深い孤独の中で耐え続ければこんな風になるのだろう」
「切実であれば伝わるというものではない」
「人が愛するのは、人が欲するものや、人から愛されようとするものだ。どれだけその思いが強くても、伝わらないものは伝わらない」
「受け取れなかった人は、受け取るべきでなかった人だ」


 いつまで経っても変わらない自分。それを愛することのできない自分。
 「誰か」を求めてしまう自分。愛情や承認をほしがってしまう自分。

 私を愛してほしい。認めてほしい。抱きしめてほしい。感謝してほしい。尊敬してほしい。必要としてほしい。頼ってほしい。望んでほしい。
 私という存在を。


 対等な存在とは何か。どうやったら人と人は対等であれるのか。
 私は誰かに捧げられるものなど何もない。何も捧げたくない。
 私は誰かから捧げてほしいものなど何もない。何も受け取りたくない。
 ただ、抱き合っていたいだけ。この寂しさを埋め合っていたいだけ。あぁでも、そのような行動の先に待っているのは、結局、二人分の寂しさなのではないか? ひとりきりが寂しい人間がふたりになったところで、結局そこではふたりきりの寂しさが生じてくるだけなのではないか?
 だから結局子供を作ろうとするのではないか? 三人いれば、もう寂しくないって。でもそんな風に、誰かの寂しさを埋めるために生まれた子供は、両親に対して何を思う?

 そうだよ。ふたりにとっては三人でも、その子にとってはひとりなんだよ。だから、他に愛すべき人を探そうとする。この寂しさを埋められるような相手を探し求めようとする。
 兄弟が何人いたって同じだよ。結局私たちはひとりぼっちが寂しいから、異性を求めるんだ。誰かの温もりが欲しくて仕方がなくなるんだ。

 そうして、そんな意味のない繋がりの果てに、私がいるのだとしたら、やはり私の寂しさや、人を求める欲望には、一切意味も価値もないのではないか? 恋も愛も、しょせんは……欠けているものを埋めようとする、空しい試みに過ぎないのではないか?
 結局その先に、またひとり、欠けた人間を生み出す。寂しくて仕方のない人間を作り、悩み、傷つき、そして「やっと寂しい思いをせずに済む」と言いながら、また別の新しい人間に寂しい思いをさせる。
 何度も何度もそれを繰り返して、その先にいったい何がある? その先にいったい何がある? その先にいったい何がある? その先に……


 凍えるような寂しさに震え、私は自分の体を抱きしめている。どうすれば温かくなれるかは知っている。でもその温かさは、私には嘘のように思える。そんなことはありえないような気がする。

 たとえば、あの子のような精神を持った男性が私の前に現れ、私を愛し、抱きしめたとして、そんなことがあったとして、私はそこで何を思う? 私はきっとそこで、また別の寂しさを感じ、その寂しさの果てに、またひとつの小さな寂しさを産もうとすることだろう。


 私はひとりぼっちで生きていても、寂しさを感じずにいられるくらい、豊かな人間でなくてはならないのかもしれない。
 私とつがいになる誰かや、私の子供に寂しい思いをさせないくらい、強く、温かい人間にならなくてはならないのかもしれない。そうなるまでは、他者を求めてはならないのかもしれない。他者の温もりを必要とする人間は、自分の中で温もりを育てることをやめてしまう。いつも温めてもらえる人間は、自分が人を温めるために何ができるか真剣に考えることなんてできなくなってしまう。

 しっかり自分の寂しさや弱さを抱きしめないといけない。その温度に慣れないといけない。そうして、自分で自分を温めることができるようにならなくてはならない。

 熱い鉄のような人間は、孤独の冷たさを、きっと気持ちよく感じることだろう。暑い夏の日に浴びる氷水のようなさわやかさを、孤独の中で感じることだろう。

 私はそういう人間になりたい。

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