「時代に反抗する」ということもしょせん時代の一部になっていることに過ぎない

 わざわざ言う必要ないことなんだけどね。

 この時代の人たちは「自分の頭で考えること」をものすごく重視している。最近まで「知識が大事」「考えることよりも言われた通りにちゃんと動くこと」みたいな考え方が主流だったから、それに反抗しているという形。
 なんか、自分で考えた結果として「私たちは考えないといけない」と言っているのではなくて、どちらかといえば「考えずにただただ必死になって前に進み続けた結果、あまりうまくいかなかった」という事実があったから、それを見て何も考えず「私たちは考えないと!」と言っているように見えてしまう。

 別にそれが悪いというわけじゃないんだけどね。でもそういう「元々あった精神的な傾向」に反対する立場、というのには警戒した方がいい。それは新しい「時代の流れ」に流されているだけかもしれないから。その流れの結果、悲惨なことが起こった場合、またその逆が「時代の主流」になって、自分でも気づかないうちにてのひら返しまくってることになっちゃうからね。

 「人の言う事を鵜呑みにせず、自分の頭で考えること」というのは、言っておくけど、生きていくうえで、生き残っていくうえで、絶対的に有利になるような生き方でもないし、何か確固とした理想や理念に基づいた考え方でもない。
 言ってしまえばそれは「私たちは実力不足だから修業しなくちゃいけない」と言っているのと何ら変わらない、抽象的過ぎて何にもならないようなお題目なのだ。

 実際人は、自分の頭で考えている人を見ると「何を考えているのかよく分からない」としか「思えない」。そこから何かを学び取ろうという態度を演じることはできるけれど、実際にそれができるようになるためには、長い長い訓練を必要とするし、現代人にその訓練をするだけの時間と体力的な余裕があるかと問われると、おそらく否であろう。

 私は何も知らない人間ではあるが、自分が時代の流れとは別の流れでものを見ているという実感があるし、その流れにおいて自分の意見を言うことができるという自信もある。私はあくまで、時代に対して中立であろうとしている。
 あらゆる時代を等しい目で見ようとしている。私は、自分が時代の流れに流されているという感覚を知っているから、それを自覚することもできる。たとえば、今私が書いている文章は、しょせん時代の流れの結果に過ぎない。

 そもそもSNS上で何かを書いているという時点で、私という存在は時代の流れに流されているのだ。この先どうなるかは分からないが、場合によればSNSというものが存在する時代があまりにも愚かな時代であるという考えが、ひとつの時代の流れになる可能性もあるし、資本主義自体が時代遅れの劣った産業形態であるという考え方が主流になる可能性もある。
 結局私たちは、時代から離れてものを考えるためには、自分の個人的な経験、感覚に従って考えるしかないのだ。それ以外のすべては、この時代特有のものでしかない可能性があるから。それを肯定するのも、否定するのも。

 私は考えるけれど、それはあくまで自分自身の中で答えを出すためだけだ。他の人も、それぞれそうすればいい。そうしたくないなら、好きにすればいい。私は人間を集団で見るのが嫌いだ。実は、時代で見るのも嫌いだ。クソほどどうでもいい。他人に押し付ける「べき論」はどんなものでも嫌いだ。
 日本人は「犯罪はダメだ」とみんな口をそろえるが、しょせんそれも偏見に過ぎないことを、誰も認めようとしない。それは明らかに偏見だ。何を根拠に「犯罪はダメだ」というのか。いやもちろん、後付けの理屈は聞き飽きた。どんな理由をつけたところで、結局は「ダメなものはダメだから」という純粋な「禁止」「命令」に還元される。

 「やってはいけないこと」というは結局のところ、誰かにとって「されたら困ること」に過ぎない。
 それは一個人を縛るための理由としては正当じゃない。それはあくまで「騙して、従わせること」に過ぎない。

 私にとって「罪深いこと」と社会にとって「罪深いこと」は常に乖離しているし、もっと言えば、あるゆる人間にとってそうである。たとえ犯罪でなくても、犯罪以上に憎むべきだと思うことがあるのはそういうことである。
 犯罪というのは、結局のところ「社会」によって定められた、強制力を持つそれに過ぎない。だから、常に「さもなくば」なのである。

 強制力を持つことのできない弱者たる一般庶民は、社会を擬人化し、自分に投影する。つまり、自分が憎むものを自分で罰しているような感覚になっているだけで、実のところ、それは全て幻想である。法律は、機能であって、それ自体が主体であって、それを支えている国民のものでは「ない」。そう思い込んでいるだけであるし、実際に国民のものにしてはいけない。

 本来犯罪者を憎むことは不合理である。憎んだところで、それ以降の犯罪者数が減るとは考えづらいからである。
 罰は有効である。罰は、結局のところ見せしめである。それによって、犯罪の抑止力になる。だが……社会的な偏見、つまり「犯罪を犯した人間を絶対に許さない各個人」というものの存在は、それもまた実際の罰以上に犯罪への抑止力になるのは事実であり、社会的な観点でみるならば、それは社会にとって非常に有益なことである。

 人間の不合理な性質を利用した合理的な上からの押し付け。相互共生。
 だがそれは、同質なものの間でしか通用しない。私はどうしようもなく彼らが考えないことを考えしまう。私が考えようと思って考えているわけではなく、私自身の本性に即して生活をしていると、どうしようもなく彼らの思考や仕組みを暴こうとしてしまう。暴いてしまう。それが実際にどれくらい正しいかは重要じゃない。なぜなら……私の言葉には、説得力があるから。言葉というのは、届くだけで十分な意味を持つ。それを正しいと思う人間が少数でもいれば、それだけである程度の力を持つ。

 私には目的などない。ただ、どうしようもなく感じたこと、考えたことを伝えたいだけだ。

 この時代の流れは私のような人間にとって追い風だ。
 「いろいろな考え方に触れること」が是とされる時代において、私のような存在は生きることが許される。逆に言えば、このような時代でなければ、私のような存在はありのまま生きることは許されない。死ぬか、別の何者かに自分を変容させるか選ぶしかなくなる。

 この先の結論はそれぞれで用意してくれ。あなたはどう思うか、自分で考えてみてくれ。
 私は私で結論を置くことはできるが、今日は言い切りたくない気分だ。私はいつもいつでも人に親切でいることのできる人間ではない。すこぷん。

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