原理主義批判に対して・厄介な認知の傾向・距離を置くということ

 原理主義と言っても、色々なものがある。社会的に都合のいいものから、どこまでも排他的なものまで。数こそ少ないが、危険なものもある。

 キリスト教の原理主義は社会的にそれほど悪影響を及ぼさない。イスラム教も、本来的には同様である。
(なぜ平和を愛する聖典の内容をそのまま受け取って実践することが、社会を不安定にすることに直結するのであろうか? 宗教的な原理主義者のほとんどは閉鎖的ではあるが、平和的である)

 原理主義者を批判したくなる気持ちは、理解できなくはない。
 批判しやすいからだ。彼らの誤りは、指摘しやすいからだ。誤りを指摘している時、人は自分が正しいと思い込むことができるからだ。

 人は単純な生き物で、黒の反対は白であるから、黒を批判している自分は白である、という理屈を無意識的に信じる傾向にある。
 これは非常に厄介な傾向である。しかもこれを「論理的」と形容する輩までいるのだ! 

 これはアナロジーである。アナロジーは、厳密な論理ではないし、いくらでも歪めることが可能なものだ。だが、人の認知機能には、非常に分かりやすく伝わっていくし、聞き心地もいい。まっすぐな論理であるかのように聞こえてしまうのだ。

 実際、犯罪者を声高に怒りを込めて非難する人、被害者に同情の涙を流す人は、私たちの目には好印象に映る。映ってしまうのである。
 厳密な論理に従えば、その人間が実際にどうであるかということと、その人間が皆の前でどのような態度をとったかということは、もっと複雑な関連性があり、決して「この態度なら白」「この態度なら黒」と決められるものではない。だが、私たちはそれを直感的に決めつけてしまう傾向にある。人間にはそういう機能があるのだ。

 人はこれまでの歴史上、それが正しいことであるか間違っていることであるかは問わず、団結すること自体が生きていくのに有利に働いた。ゆえに、重要なのは同じ目標を信じ込むことであり、決して疑うことや探求することではなかったのだ。
 だが時代は変わった。私たちは、生きること自体にはそれほど大きな対価を払う必要がなくなった。生き残りをかけて争う必要はなくなった。それが事実なのだ。

 ここで「人間は永遠に争い合う生き物なのだ」という別の可能性を、たったひとつの真実として皆が信じてしまうことは、停滞であり、退化なのである。それは今までの人類がずっとやってきたことであり、私たちの時代が克服すべき課題でもあるのだ。

 私たちはもう、一致団結しなくても、生きていける。対立しても、衝突せずにいられる。これはひとつの事実である。
 私たちには、皆が信ずるべきひとつの目標などない。それぞれが、別の目標に向かって進むことが許されている。そういう時代なのだ。それが、時代の高さなのだ。

 私はあらゆる原理主義に対して好意的に接する。原理主義を批判する人に対しても、同様に接する。私はあらゆる誤りに対して寛容だ。ただそれが、下品でなければ、だが。

 私にとって品性とは、他者を尊重する態度の程度である。私は、私が相手を尊重しているのに、相手が私を尊重する気がないのなら、私はその人とは関わらないことにしている。
 私は尊重されて然るべき人間であり、私が関わる全ての人間は、尊重されて然るべき人間だと思っていたいのだ。
 私はこれから出会う全ての人の意見を、その優劣、深浅問わず尊重していたい。
 だから、私は私が尊重することができない類の人間とは、関わらないことにしている。

 私には私の趣味がある。目標や生き方に文句は言わないし、他者には強制しない。だが、私が付き合う人間は、私が選ぶ。厳格に選ぶ。それが私の趣味であり、時代に相応しい生き方なのだと思っている。

 衝突するよりは、距離を置いていた方がいい。それが賢く、上品な振る舞い方なのだ。

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