優しさが死んでしまわないように

 私たちの苦労は目に見えない。努力も我慢も悲しみも優しさも、全部目に見えない。

 私たちはいつでも、誰かに知っていて欲しいと思っている。私たちがやってきたことを。私たちが耐えてきたことを。誰かのために、と思ってやったことの全てを。


 私たちがそう思うのは、きっと私たちが動物だからだ。私たちが、対価を求めているからだ。でも、知られていないことには対価なんて払われないから、誰も私たちの献身に気づいたりなんてしてくれないから、私たちは……ずっと損した気持ちで生きている。

 優しい人間はみんなそうだ。気高い人間もみんなそうだ。優しさも気高さも、本当は、みんなから知られていないと意味のないものだ。でも、それは主張された時点で消えてなくなってしまうものでもある。
「私はこんな優しいことをした」
「私はこんな気高いことをした」
 そういうことを言ってしまった瞬間に、行動の意味はなくなってしまう。尊重される価値がなくなってしまう。
 だって、他の人はそれを聞いて嫌な気持ちになるから。その「人の気分を害した」ということだけで、私たちの彼らへの貢献はなかったことになってしまう。そういう道理を、私たちは知っている。

 だから、本当は、私たちが他者のために尽くしてきたことは、誰かが知っていないといけないのだ。全て、誰かが知っていて……ただ、それを知っていてくれているだけでいい。知っているだけで、私たちは救われる。

 それほどまでに、私たちの優しさや我慢は、報われてこなかった。報われる道理などないからだ。

 優しさも気高さも、黙っていれば忘れられる。喋ってしまえば失われる。少しでも、人に気づいてもらおうなんて考えてしまったら、それだけで台無しになる。
 それほどまでに、優しくあるということや、気高くあるということは、繊細で、難しいことなのだ


 私たちどうしても神のような存在を求めてしまう人間は、今までずっと、誰にも気づかれず優しくあろうとしてきた人間なのだ。誰かに利することによって、自らを生かそうとしてきた人間なのだ。

 私たちの我慢や献身は、全部神様が見ていて、私たちはそれによって救われる。神様が私たちを愛してくださるなら、私たちの人々への献身は、全て意味があったことになる。
 私たちの優しさは結局のところ、私たち自身の我欲に結びついている。でも、だからと言って、誰かから助けてもらった時の喜びは、幸せは、あの救われたという感情は、嘘になるわけではないのだ。
 たとえ、それが幻想の対価のための行いであったとしても、それでも、優しさは美しかったのだ。


 この世の優しさという優しさは神様と一緒に滅びてしまったのかもしれない。今や優しさは常に誰かの利益と結びついている。
 神様との約束があったから、私たちは誰かに対して無条件の優しさを与えることができた。相手に優しくしたのに、そのお返しにひどいことをされても、それを許すことが簡単にできた。
 全部神様が見ているから。私は神様に愛されているから。だから、私のこの美しい感情も、苦しみでしかない我慢も、全部意味があることになった。

 それなのに、それなのに。
 私から生きる意味を奪った人たちは、今日も幸せそうに生きている。対して私は、今でも苦しんでいる。神様なんていない。私たちの善行はどこかに消えて行ってしまった。私たちが愛した人々も、どこかに消えて行ってしまった。残ったのは、己の幸福と満足を際限なく追い求める醜い生き物。

 私たち信心深い人間、優しくあろうとする人間、気高くあろうとする人間は、単なる間抜けに変わってしまった。生きるのに適さない人間になってしまった。時代に取り残された人間になってしまった。

 この絶望をどう言い表せばいいのだろう? 私たちはもはや、自分たちの利益に結びついていないと誰かに優しくすることすらできなくなってしまったのだろうか? ただ、無条件的に、ただそれを為すべきという理由で、私たちは、私たちに難しいことを課すことができなくなってしまったのだろうか?

 全部が演技に変わってしまったのではないか?
 誰かを助けることや、誰かから助けられることが、全部無意味なことに変わってしまったのではないか? 全部、無味乾燥な、美しくない、一時の欲望に変わってしまったのではないか?

 人間への感謝なんて、神への感謝と比べればどうでもいいものだった。そうだ。
 私たちが誰かを助けた時、私たちはかつてこう語ったのだ。
「感謝は、私たちを出会わせてくださった神様にしましょう。共に、祈りましょう」
 あぁその瞬間は、全てが美しくなっていた。それが全部嘘だとしても、嘘だと分かっていても、祈る価値があった。祈る価値が確かにあったのだ。

 全ては失われてしまった。もう二度と戻れない。戻れなくなってしまった。

 もはや私たちは、私たちの美しい信仰心を思い出すことすら、難しくなっている。虚無の中に取り残され、そこで自分の人生の無意味さに喘いでいる。


 私がずっと欲しかったのは、優しさだった。純粋無垢な、血のつながりを超えた兄弟愛だった。


 私たちが今必要としていることは、私たち自身が、神のようにすべてを見通すことができるようになることなのだ。
 優しい人間に、それに相応しい優しさを捧げなくてはならない。神なき私たちは、神のように、誰も知らないことを知っているかのように扱わなくてはならない。
 想像するのだ。そしてその想像は、私たちにとって一番非現実的な、美しい想像でなくてはならない。
 他者が、目の前の他者が、私たちの知らないところでたくさんの美しい行いをしてきたのだと考えなくてはならない。そして私たちが、その対価を払わなくてはならない。そうでなくては、人間が優しい存在である意味がなくなってしまう。
 誰もが己のためだけに生きる醜い存在に終わってしまう。

 私たちが、まずは、知られざる善行に報いなくてはならない。たとえ知らなくても「知っている」と語らなくてはならないのだ。
「あなたがたくさん我慢してきたことは全部知っている。あなたが気高く生きてきたことは全部知っている。それでいて、それを誰かに語ることなく、あなた自身だけの秘密にしてきたことも、全部知っている。あなたは間抜けなんかじゃない。あなたは賢くて素敵な人だって、私は全部知っている」
 神様が死んでしまったなら、私たちが神様の代わりをしなくてはいけないのだ。

 この世には、あまりに救われないことがある。あまりにも、報われなかった感情がある。

 全てが嫌になって死んでしまう前に。
 美しく生きることが、あまりにも空しくて、死んでしまわないように。

 私たちの優しさが報われないのなら、私たちはもっと優しくならないといけない。
 そうでなくては、私たちの愛する優しさが死んで、この世から消えてなくなってしまうから。


 そして、優しさには虚偽を虚偽と見破るだけの目も必要だ。見せかけを信じてしまえば、私たちは、それだけで私たちの優しさを信じられなくなってしまう。優しさは悪用されてしまえば、もはや全部が無意味になる。
 だから、優しさは、それが悪用されないための賢さを必要とする。

 神なき時代の優しさとは、正当に評価することなのだ。
 見えないものを見て、愛されるべきであったのに愛されなかった人間を、愛さなくてはならない。

 この時代に慣れてしまってはいけない。

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