自分に厳しく人に優しく

 その理想は、憎しみに起源を持つのではないか?
 ある友達を見た時、私はそう思った。

 彼女はこう言った。
 「私は自分に厳しい。自分にだけ厳しい。他の人には優しい自分でありたいけど、自分自身には誰よりも厳しくするようにしている」

 自覚していないようだったが、彼女は「自分に甘く他人に厳しい人」が嫌いだった。嫌いでありつつも、彼女自身の理想像である「自分に厳しく人に優しく」を実行するために、そういう人に対しては何も言わないようにしていた。
 彼女は、自分に甘い人に対して軽蔑のまなざしを向けていた。

 そして、彼女と同じ「自分に厳しく人に優しい人」を、彼女は尊敬して、ほぼ無条件的に、それだけで好意を向けていた。
 彼女は私のことを心底尊敬しているようだった。なんでも「○○さんは、色んなことがよくできるのに、全然傲慢な感じがしないから」とのことだった。
 「それは隠しているだけだよ」と私が正直に答えると、その子は少し顔をしかめた。

 彼女は「甘える」ということを憎んでいたのだ。そのくせ「人に甘やかしてほしい」と、本人は自覚していないにせよ、少なくとも彼女の肉体は、それを求めていたのだ。
 彼女は、褒められたり認められたりすると、大喜びした。人が自分に甘くすると、彼女は大喜びでさらに自分に厳しくなった。

 彼女は自分に厳しくすることによって、人から厳しくされないようにしていたのだ。
 「自分に甘く、人に厳しい」というタイプの人間を、自分に近寄らせないようにしていたのだ。


 おそらく彼女は自覚していない。
「すべての人間が、自分に厳しく、他人に優しくなればいい。そうすれば、誰も傷つかずに済む」
 あぁ、それは、この真実から導出された答えでしかないのだ。
「私は、自分に甘く人に厳しいタイプの人間に傷つけられてきた。私は、二度と人に傷つけられたくない。人を傷つけるような人間と共に生きることはできない!」

 自分というのは、自分に一番近い人間であるから、その理屈は自分自身にも適用される。

 人を傷つける人間と一緒には生きられないから、まず自分自身が人を傷つけない人間にならなくてはならない。
 だから彼女は、自分に厳しく、他人に優しい人間を「演じようとした」。だがその結果、彼女は自分自身を自分自身で傷つけ続けることになった。

 彼女は彼女自身を、恨んでいる。自己嫌悪感が、言葉の色々なところから漏れてくる。彼女からは、あまり自信が感じられない。彼女は、意味もなく自分を傷つけすぎたのだ。


 そのような歪みの原因は「優しさ」と「厳しさ」を、相反するものとして見たことにあると思われる。

 つまり「自分に甘いなら、人に厳しくするしかない」「自分に厳しいなら、人に優しくなるに違いない」というような、誤った法則を信じこんだことに原因がある。人間の認知機能には、このような罠がたくさんあるのだ。

 人間というのは、自分にも他人にも優しく接することはできるし、同じように厳しく接することもできる。
 それに、一番不出来な人間の正反対が一番出来のいい人間というわけでもない。別の場合においても、悪人の持つ性質の正反対の性質を持つ人間が、善人というわけではないのだ。
 彼女の誤りはそこにある。

 彼女は「自分に甘く人に厳しい人間」を憎むあまり、その正反対である「自分に厳しく人に優しい人間」を理想として掲げてしまったのだ。
 その結果、過剰に自分に厳しく接して、病んだ。

 私はこう思ったけれど、それを正直に伝えていいものか迷った。これは単なる勘だし、的外れである可能性も否めない。意味もなく彼女を傷つけやしないかと思って、言わずにしまっておいた。


 たまたまこの記事を彼女と同じタイプの人が見て、自分を振り返るきっかけになったら、私は嬉しいと思う。

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