平等主義と賢さ

 私の平等主義精神はかつてこう言った。

 すべての人間が私と同程度かそれ以上に賢くなるべきだ。

 それが両者にとってどうしようもない重荷であり、足かせであることに気が付いたのは、それからしばらしてからだった。
 彼らは賢さとは何かがまず理解できていなかったし、私のいう意味である「賢さ」を身に着けたいと思っている人は、ほとんどいないことにも気が付いた。
 言い方を変えよう。賢くなりたいと思った人間が賢くなり、賢くない人間は、そもそも賢さではない別の何かを追って生きているのだ。

 自由と平等は、実のところほとんど相容れない。求めるものが自由であるならば、当然人々は散らばっていき、その先にある財産や能力には優劣ができる。当然、その結果は子供にも影響する。

 人は自分が求めたものを手に入れる。私はずっと、賢さと幸福を追い求めてきたから、結果として賢さと幸福を手に入れた。対価として失ったのは、協調と安心感だ。私はこのふたつが、どうあがいても賢さと幸福とは相いれないことに気が付いてしまった。

 いや、原理的には、そんなことはない。皆が賢くなれば、賢い人間も協調することができる。皆が、誤った方向に向かって協調することをやめれば、賢い人間もそれに追随することができる。
 世界が本当の意味で平和になれば、幸福な人間も安心して日々を過ごせる。自分の幸福が乱暴者によってぶち壊しにされはしないかと、怯えずに生きることができる。

 でもそんな世界は来ないし、来るべきではなかったのだろう。

 私は苛まれている。


 幸福が大きくなれば大きくなるほど、痛みや苦しみも大きくなる。人生が豊かになればなるほど、心の中には沈殿物が溜まっていく。

 完全に対立し、片方が強まると片方が弱まるような関係にある物事など、この世にはほとんどないのだ。
 大きな幸福は大きな不幸に耐えるために存在し、大きな不幸は人を偉大にするために存在する。
 人は偉大になったとき、大きな幸福を感じる。どんな不幸も、取るに足らないと感じるほどの。

 全員が偉大になれないのならば、平等主義などくだらない。私は偉大さを愛しているから、人間は偉大になれないなら、価値はない。偉大さは人生の至るところに存在するが、人々はそれに気づかない。

 人間は平等じゃないし、平等であるべきでもない。偉大になれないだけでなく、その偉大さに敬意を払いもしない人間は、ほとんど無価値であると私には感じられる。

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