安楽死【ショートショート】

 世界は平和だ。どうしようもなく平和だ。争いは起きない。争いを起こすようなタイプの人が、みんな疲れ切ってしまったからだ。
 犯罪もめったに起こらなくなった。犯罪的傾向を抑制する薬が開発されて、それを新しく生まれた人間すべてが摂取することを国連が義務付けたからだ。

 科学技術の発達はほとんど止まっていた。そもそも、あまりにも細かく細分化した学問体系は、ひとつの分野の基礎ですら、普通の人では学ぶのに人生の半分は使わなくてはならないほど大量かつ複雑で、スタートラインに立てたとしても、そもそも自分の研究を理解してくれる最低限の知識を持っている人がほとんどいないので、モチベーションも上がらず……まぁ言ってしまえば、科学技術がこれ以上発展しないのは、もう発展させる必要がなくなったからなんだ。ノーベル賞も廃止されて久しいし、論文だって一応全部データとして保存されてるらしいけど、実際に私たちの手に届くのは、分かりやすく言い換えられたものだけだし、それは誰が書いたかなんて誰も興味ないし、大事なのは役に立つ知識そのものだから……いやまぁ、それもしょせんは、知的欲求を満たすためであって、私たちが疑問に感じることのすべては、もうすでに先人たちが答えを出してるから、検索して、答えてもらって、納得できなくても、無限にまた別の意見が出てくるから、そのうち疲れてしまって、どうでもよくなってしまうのだ。

 そう。どうでもいい。みんなそう思って生きている。


 私は、周りの人間に「死にたい」と言って、うんざりさせるタイプの人間だった。もしこの先時代が逆行したら、なんだかそれは変なことのように聞こえるかもしれない。「死にたい」と言った時、それが心配されるような時代は結構長かったらしいから。
 そういう時代を生きる人のために説明するなら……そうだね。暑い場所にいるときに「暑い」と言ったり、夕方、お腹が空いたときに「お腹空いた」と言う人のことをどう思うのだろう。「そんなのわざわざ言わなくてもいいだろう。みんなそうなんだから」と思うんじゃないだろうか? 私の「死にたい」も、そういうことだ。みんな生きることに疲れていて、早く死にたいと思っている。でも死ぬ理由もないし、そもそも死ぬっていうのは大仕事だ。めんどくさいのだ。疲れてる私たちは、死のうとする元気もない。だから「死にたい」とだけ呟きたがる、というわけだ。

 ついに、健康な人間の安楽死が制度として認められた要因は、人間が社会の維持に完全に必要なくなったことだった。それは昔からずっと言われていたことだったけれど、それに反対をしていた頭の固い、二百歳を超えるような人たちがいる、いわゆる「元老院」が崩壊したことがきっかけだった。噂によると、彼らも疲れ切ってしまって、誰かが法を破って何かの薬を飲んで自死したことがきっかけで、その半数以上が死ぬか、あるいは組織と関係のないところに隠れてしまったので、組織が機能しなくなってしまったのだ。
 だから、かねてより若い世代から支持されていた「死ぬ権利」がついに正式に認められたわけだ。

 最初のうちは、人生に深く絶望してる人や、失恋した人、頭の悪い人や、何らかのトラウマを抱えている人たちのような、いわゆる「落伍者」たちくらいしか、安楽死をする人はいなかった。でも二年ほど経つと、フィクションの中の「心中」に憧れた馬鹿な男女が透明なカプセルに入って、キスをして、抱き合って、体も心も美しいまま死んでいく動画をアップしてからは、流れが変わった。そんな風に素敵に死ぬことができるなら、と影響された人たちが、色んなやり方で安楽死をするようになった。安楽死をするふりをする、というのも流行った。自分が死ぬ動画をあげたあとに、普通に実は生きてました、という感じで隣人たちを驚かせる、みたいなくだらない遊びが流行った。でも皆がそれを意識し始めると「はいはいまたそれね」みたいな反応になるので、すぐに廃れた。
 ともあれ安楽死のハードルが下がると、ちょっとつらいことがあるだけで死ぬ人が増えた。昔にあったつらいことをあえて思い出して、死のうとする人も増えた。安楽死の施設は常に予約で埋まるようになったが、たいていの予約はキャンセルされるため、実際に死ぬ人はそれほど多くなかった。でも、この時代においても、人が並んでいると自分も並びたくなる、という馬鹿みたいな本能は残っているので、死ぬつもりはなくてもとりあえず予約しておくした人は多かった。そういう人が、忘れたころに自分の順番が回ってきて「キャンセルするのもめんどくさいし、死ぬか」というような軽い気持ちで死ぬこともよくあった。誰も悲しまなかったし「まぁそんなもんだよね」と諦めていた。「生きてたって、そんないいことないしね」と。

 私はなぜか、安楽死を利用する気にはなれなかった。自殺未遂者の方々も、そうみたいだった。多分、そんな簡単に死んでしまうことに抵抗があるのかもしれない。死にたいけど、ずっと死を我慢してきたわけだから、いきなり「楽に死なせてあげますよー」と言われても、ほいほいついていけないのだと思う。というか、一度死に近づいたうえで、どんなに苦しくても、空しくても、生きていくのだと決心している人からすると、この現状はきっと馬鹿みたいに見えるんだろうと思う。
 それまで死にたがっていた人が死なず、死のことなんて何も考えずずっと周りに合わせて生きていた人たちがどんどん死んでいくこの時代。

 街を歩く人の数も減った。死にたい、と言う人の数も減ったし、私も死にたいと言わなくなった。多分、私は自分が死にたいわけではないことに気づいたからだと思う。生きていたいとは思わないけれど、なんだか知り合いが実際にたくさん死んでみると、少し元気が出てきたんだ。
 死ぬことには、何の意味もないんだなぁって思った。生きることにもきっと意味はないけれど、でも、私が私として何かを考えて、感じていることには、もしかしたら何らかの意味があるかもしれない。
 ただ何も考えず、楽に死のうとした彼らはきっと、私とは違ったことを考えて死んでいったんだと思う。うん。だったら、彼らの生と死に意味がなかったとしても、それは私とは関係のないことなんだ。

 私は、とりあえず、私の体が私に死ぬべしと定めるその時までは、何があっても生きていこうと思う。
 死にたくないから? いいや。楽に死ぬのはなんか嫌だから。

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